るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

暴投こそがコミュニケーションの醍醐味

こうやってブログを書いていると、難しいなと思うことがたくさんある。

文章を書くことが趣味の範疇を超えないため、0から100まで全てが不完全なわけではあるが、ブログのタイトルはその筆頭にあるだろう。
タイトルに一番自信がないわけではなく、タイトルを考えることが一番楽しいということである(僕の脳内は難しい=楽しいという単純構造になっている)。

ひと昔前まではタイトルは「簡潔」で「わかりやすい」ものが正しいものだと思っていた。
無論、その考えは変わらないものの、るなてぃっくをコンセプトのひとつにブログを書いているわけで、簡潔やわかりやすさという束縛からは自分を解放するようにしている。むしろ、簡潔とわかりやすさの逆をいっている。いかに中途半端かが、タイトルの決め手になっている(気がする)。

昔から「話の腰を折る」のが好きだった僕は、友人との会話でも、それが支障をきたしてもよいと判断した日常会話であればたびたび話の腰を折っていた。と言っても100%違う話題に変えるわけではない。それはただつまらない。
たとえばこんな風に話の腰を折る。

友人「今日スペイン語の授業やな、だるいわー」
野狐「そうやな、だるいな(あ、これは話の腰を折ってもいい話題だ)」
友人「スペイン語の宿題やった?俺まだやわ」
野狐「え、スペイン語の授業で宿題なんてあったっけ?(よし、狂わそう)」
友人「え、あったくない?」
野狐「いや、スペイン語の授業にそもそも『宿題』は存在しないよ」
友人「なに言うとん、今までも宿題あったやん(あ、こいつ会話を狂わせる気だ)」
野狐「だってそもそもあの先生日本語しゃべらんやん(気づいたな)」
友人「いや、そういう意味ではなく、宿題という概念はでも存在するやろ?」
野狐「宿題の概念が存在したところであのクラスでは『宿題』は存在しないよ」
友人「じゃああれや、スペイン語でいう宿題や」
野狐「その『宿題』とやらはスペイン語でなんと言うんだい?それを言って貰わないとわからないよ」
友人「俺もわからん」
野狐「no lo seということでいいのかな?」
友人「そうやな、わからん。てか、日本語わかってるやん。」
野狐「え、なんの話?」
友人「今、俺が日本語で『わからない』って言ったのをスペイン語に訳したやん。その調子で宿題も訳してや」
野狐「そいつはできないな、俺も宿題をスペイン語でなんて言えばいいかわからないから」
友人「じゃあ宿題の意味はわかってるの?」
野狐「は?あたり前やん、二十歳過ぎて宿題の意味がわからんやつがおるのか?」
友人「わかってるんやん。ところで、今日のスペイン語の宿題やった?」
野狐「ん、やってないよ」
友人「そうか、俺は今後どうしようかと悩んでいるよ」
野狐「今後は、前日までに宿題をするように心がけたらいいんでない?」
友人「いや、宿題じゃなくて、今後の君とのコミュニケーションのことだよ」

とまあ、こんな感じだ。
終始テンションを変えずにこういった会話をしていた。
無論、友人もこういった会話になり得る可能性を承知して僕に喋りかけてくる。
多分、僕のブログもこんな感じで進んでいるのだと思う。

だから、言ってしまうと、そのタイトルを考えることが難しい。
「暴投続きのコミュニケーション」とか「意味不明な会話」とか、簡潔に言えばそういうことなのだけど、そうなるとタイトルはまともになってしまう。タイトルがまともであればその中身はただの作られた狂気になる。
言わずもがな作っているわけだが、出落ちの如くその作為的狂気を気取られたくはない。
だからこそ、「なんですのんこのタイトル」という感じがちょうどよいと僕は思っている。

ここ最近のマイブームは、ちょっと長めのタイトルをつけることである。

一旦話を逸らすが、近年のラノベの多くがそうである。
なんだろう、短い簡潔な文章はもはや伝わらなくなってしまったのだろうか?
『転生したらスライムだった件』とかまでならまだわかるが、たった今調べたところ、最近で一番長いのは『(この世界はもう俺が救って富と権力を手に入れたし、女騎士や女魔王と城で楽しく暮らしてるから、俺以外の勇者は)もう異世界に来ないでください。ニートもチートも無職も自衛隊も、みんなまとめてかかってこい!』らしい。
ここまで来ると、まあ、長いのをネタにこうやって拡散して欲しいのかな、と思う。

さて、少し長めのタイトルをつけることがここ最近のマイブームである。
それは、長くしないと伝わらないからではなく、長くしたほうが変な感じが際立つからである。
上記の「なんですのんこれ」に少し拍車をかけるには、一呼吸では言い切れないタイトルの方がよかったりする(と、僕個人は思っている)。

例えば「ただ腰を折るのではない、思考の概念から外れた暴投をすることこそが真のるなてぃっくなのだ」とか。
例えば「友人を困らせたいのであれば会話が通じなくするのではなく、会話が通じるか通じないかの瀬戸際を歩くのだ」とか。

なんだかこう書いていると、さも自分が優れた書き手のように書いているようでむずがゆくなる。
そんなつもりは全くないので悪しからず。

 

一応いないとは思うが、上記のような面倒な会話を試みようと思う人がいるのであれば言っておく、やめておこう。