るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

モスキート・シンドローム

夏がだいぶ近づいてきた。
毎年大抵、ふたつの事象が連続的に起こることで僕はそれを実感する。

ひとつ目は汗をかくこと。
幼少期をアメリカで過ごしたせいか、日本の、特に京都のじめっとした暑さに身体はどうも耐えられない。気づけば汗が額や背中や頭皮や脇から噴き出している。そのせいで、僕はグレーの服を着ることさえできない。年がら年中、白か黒の服しか着ないのは、それ以外の色だと汗が目立つからだ。
年がら年中と表現したように、僕が汗をかくのは何も夏だけではない。それが冬であっても、少し歩けば汗をかいている。自宅から会社まで徒歩40分という適度な運動をするには良い立地に住んでいながら、冬でも会社にたどり着く頃には長袖のシャツ一枚になっている。

そういう理由で、汗だけでは「夏が来た!」と思うことはない。やはり、ふたつの事象が連続的に起こることで、僕は夏を感じる。

ふたつ目の事象は、蚊に噛まれることだ。
春には身を潜めていた蚊どもは、夏の暑さとともにどこからともなく大量にやってくる。外をふらふら歩いているだけで2、3カ所噛まれる始末だ。実は今も、左の二の腕を掻きながらブログの原稿を書いている。

暑いだけならまだいいのだ。
寒い中で噛まれるのも、まだ我慢できる。
でも、ふたつが同時にやってくるのはいけない。


一カ所に痒みを感じると、不思議とそれ以外の部分にも痒みを感じるようになる。
気づけばあちこちを掻いていて、そのうち自身の感覚器官に猜疑心を抱くようになる。
だが痒いものは痒いわけで、不快感に思わず身体中の汗腺からじんわりと汗がにじみ出る。
これがクーラーの下だったら痒い部分を思い切り叩いて痛覚を刺激すればいいわけだが、暑い中で刺された部位を叩いても汗が飛沫となって飛び散るだけ。
水分があることで肌と肌の摩擦は限り無く減り、刺激らしい刺激を与えられない。
どうしようにも痒みだけは治まらず、叩いた手がびしゃびしゃになりながら、痒みに耐えかね、やがて僕は発狂する。
その瞬間、僕は「うわぁ夏が来た」と思うのだ。


お察しの通り、僕は「汗」と「蚊」のせいで夏が果てしなく嫌いだった。
嫌い「だった」と過去形の理由は、さらに察しのいい人ならば既にお気づきだろう。いや、実際にまだ夏を好きになってから夏本場を迎えていないから、本当に好きになれたかどうかは分からないが・・・


さて、そんなわけで僕は早速蚊に噛まれている。
今日もそうだし、一昨日前にバーから歩いて帰っている間にも、もれなく噛まれている。
バーで食べたビーフジャーキーでは物足りず、近くのファミリーマートに行って追加でビーフジャーキーを買ったのだが、その帰り道に掻かずにはいられないほどの痒みを首筋に感じた。
ふと触ってみると、首筋にぷくりとした膨らみを感じた。

その後、帰り道、恋人に電話をしながら、僕はひたすら蚊に対する愚痴を放った。
「また蚊に噛まれたよ」
「ほんとなんで蚊って人を噛むんだろうね」
「噛まなければ別に存在しててもいいんだけど」
「いや噛んでもいいから、痒みを残していかないで欲しい」
さすがは婚約者となった身、聞くに堪えないであろうどうでもいい愚痴を、彼女はうんうんと優しく聞いてくれた。
そしてふと「野狐は噛むって言うよね」と一言。

「野狐は噛むって言うよね」
「ん?」
「だから、野狐は『噛む』って表現を使うよね」
つまり、彼女は「噛む」という表現を使わないということである。
「ああ、うん、昔は『吸われる』って言ってたんだけど、『吸う』だと『血を吸う』だから、蚊よりも血がメインになっちゃう気がして。もっと蚊に対して憎悪を込める意味で『噛む』という表現を使うようになったよ」
と、意味不明だが実際にあった言語選択の遷移の自分歴史を語ってみせた。未だによくわからないが、僕の中では「吸う」は可愛らしいイメージになるのだ。「噛む」であれば、そこに凶暴性が垣間見える。そんな理由から、僕は噛むという表現をするようになった。
「うーん」よくわからない、と力なく音を伸ばす彼女。
それもそのはず、僕もよくわかっていないのだから。でもそのとき僕は酔っているから、再び同じような意味不明な言葉を繰り返した。そして、聞いた。
「君はなんて言うの?」
「食われる」
「食われる?蚊に食われる?」
確かに食うという選択はありな気もするが、同じ虫界の中に「食う」にもっと適した存在がいると思った。
「虫食い的な?」僕は聞く。
「そうそう」
「でもそれだと、虫に食われた服のイメージが先行してしまうよ」
「『蚊に』食われるって言ってるじゃん」反論する彼女。
でも、食うのが虫食いの虫のアイデンティティなのだから、その「食う」という表現を蚊にとられてしまったら虫食いしている奴らのアイデンティティはどうなるんだ、というまたもや意味不明な持論を展開することになりそうだった。すんでのところで抑え、「でもさぁ」とだけ言って反論を濁した。

しばらくすると彼女は電話の向こう側で「ふむふむ、ふーん」と言い出したので、何かを調べていることがわかった。どこかしらのネット調査で、全国では「蚊に〇〇〇」をどのように表現しているかという調査結果があるのだという。以下がその結果だ。

蚊に刺される  43.5%
蚊に食われる  39.8%
蚊に噛まれる  14.9%

なんと、彼女の食われる、僕の噛まれるを抑え、堂々の第一位に「刺される」があったのだ!
これには僕はさすがに「うぅーん」と言わざるを得なかった。
「いや、さすがに『刺す』は違うでしょう。蜂のアイデンティティはどうなるのさ」

人間にその行為をどう呼ばれようが、虫食いの虫も蜂も、蚊でさえ全く構わないということは承知。
だが、虫界の中では僕の好きな部類に入る蜂が、糞以下の存在である蚊と同じ表現をされるのは個人的に耐えがたかった。だってそうだろう、クマ蜂やミツバチのような可愛い奴らと蚊が対等に扱われていいはずがない!!

「まあ、そうは言っても刺されるが一番使われてるみたいだね」

これは非常に不快であった。箪笥にひっそりと身を潜めてたまにやんちゃをしてしまう虫食いの虫さんや、琥珀色に輝く蜂蜜を生み出す蜂さんたちと同等の存在なのだ。彼らのアイデンティティは、あの黒い害悪と同等に扱われると思うと、反吐が出る!

しかし、よくよく考えてみると、「噛む」という表現も危険だった。虫界ではいないだろうが、「噛む」というと、犬や猫を想起してしまう。「噛む」は、犬様や猫様にとってのアイデンティティなのである。

蚊を虫界から小動物界に招待するようなそんな表現は、断じて許されない。
無意識に侵してしまった自らの過ちに、僕は思わず泣きそうになった。

では、蚊にとって一番いい表現とはなんだろうか?
誰からも好かれない表現とはなんだろうか?

日曜日、ゴロゴロしたり散歩したり、ドラマを見ながら考えた。
月曜日、海外のお客さんにメールを打ちながら、日本のお客さん先を周りながら考えた。
仕事が終わってからベローチェに寄り、文字を書きながら、二の腕を掻きながら考えた。

そして、今さっき、ひらめいた。

ひらめきと同時に、左の耳たぶに痒みを感じる。
まさかと思って触ってみると、そこに、耳たぶとは別の、ぷくりとした不自然な膨らみがあった。

「うわ、耳たぶまで・・・蚊に掘られてしまった」

 

ええ、まさか下ネタで終わるとは、僕自身、予想外ですよ。

ほんと毎度、すいません。

 

自らの語彙力のなさに落胆し、その絶望に感覚が奪われていく中、二の腕と、耳たぶの痒みだけは強くなっていくのだった。