るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

久々の更新はチョップドサラダのような出来上がり

僕は毎年、その年をどういう年にしたいかということを考える。
大抵は初日の出を見ながら、寝坊した時は、三が日の合間合間に。


2016年1月1日、つまり昨年の元日、僕は初日の出を友人と見ながら例年のように考えた。
そのとき、2016年は「自分を見つめ直す」年にしようと決めた。

見つめ直すというはあまりに漠然としていたが、とにかくそれまでの人生のことを思い返してみる日が続いた。こうやって文字に書き起こしてみたり、ベッドの上で呆然と考えたりした。
ベッドで考えていると、色んなことを思い出して、なかなか眠れなくて、次の日は決まって仕事が不調だった。こんなにも非生産的で非建設的な時間を過ごしていていいのだろうかと思うくらいに、僕はただただ考える日を生き続けた。2016年は、そう言う意味では大したことは何も為なかった。

振り返ってみると、無意識のうちに起こしていた様々な行動には一貫性があることに、まず気づいた。

簡潔に言えば、僕は「変化」を欲して生きてきた。

変化は自分のみならず、他人にも望んだ。

大学時代の後輩や、仕事場での先輩も、彼らの考え方を変えたりして悦に浸る。

僕自身も変わっていっているわけだが、周囲に及ぼす変化と自分自身の変化、その性質には乖離があった。

他人の変化は考え方や生き方である一方、僕自身に起こす変化は対外的なものだった。

つまりは、環境の変化である。

基本的に僕は好きなことをして生きている。こうやって文字を書いているのも、好きだからだ。

大学の時に様々な活動をしてきたが、それらは全て好んだ結果、興味を持った結果関わったものである。

そうして興味のあるものにどんどん手を伸ばして僕は生きてきた。

 

そして、ある日、必ず変化は起きる。
飽きたら、それまで金と時間をつぎ込んできたそれらを、一挙に放棄した。

 

僕にとっての変化とは、つまりそういうことであった。

 

放棄。

 

それは、ひどく冷たいものだった。
それは、ひどく勿体ないものだった。

 

「何故今まで気づかなかったんだろう」
ベッドの上でそう呟いた日があった。
さらに数週間が過ぎた後、僕はまたベッドの上で呟いていた。
「いや、気づいてたのかな・・・」

 

「放棄」を認めるのが嫌だったから、都合のよい「変化」という言葉を使っていただけだった。それはずっと前から続けていたことだった。

 

僕は、都合が悪くなると放棄する傾向がある。

さらに言えば、限界が見えたところで放棄をする傾向がある。

何事にも一生懸命に打ち込むも大して達成感を得られないのは、いつか放棄することがわかっているからだった。

放棄こそが、心のよりどころとなっていた。

 

それらは一気に見えた物ではないが、ゆっくりと言葉にできるくらい顕在化していった。
2016年が暮れる頃には僕はそのことに気づき、その頃、今の彼女と出会った。

 

彼女は不思議な人である。
会う日を重ねる毎に関係が深くなっていく感覚を覚えた(その魅力を伝えられないのが残念だが、独り占めしたい僕にとっては好都合かもしれない。いや正確には、伝えられないのではなく、独り占めをしたいから伝えられない振りをしているだけなのかもしれない)。

 

年越しは、二人で過ごした。
本当は伏見稲荷に行って、狐の面を二人で被って徘徊をした後、初日の出を面越しに見ようと考えていたが、漫才を見ながら彼女を抱きしめているといつの間にか眠ってしまっていた。

眠りにつくかつかないかの間に、僕は決めた。
「2017年は、本当の変化を起こす年にしよう」と。

 

そうして月日は流れる。
その間に、色んな出来事があった。

少し前までは一人でよたよたと歩いてきた人生を、一緒に歩いてくれる人が見つかったことを皮切りに、彼女の親に会って、たくさんの話をして、結婚を許してもらった。
仕事場では一番の年下にも関わらず、大きなプロジェクトに参加し、傲慢か慢心かは定かでは無いような横暴な発言も繰り返し、何故か役職をもらえた。

今までの僕なら、それらをまさしく「変化」と思っただろう。
もしかしたら、その変化が行き着くところまで行ってしまえば、またそれらを放棄しようと思ったかもしれない。

だが、文字通りそれらは「出来事」であって、変化ではない。
むしろ、変化の「結果」のようなものだろうか。

今はその変化を言葉に落とし込むことはできない。
漠然と、自分の中で何かが変わったような気がする。おそらく、それは単一的なものではなく、複数の事象が細かく変わりながら絡み合って、全く別の何かができているのだと思う。ひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、その変化は彼女と出会ったから起きたことである。そして、今まで自分の感じてきたことが変化ではなかったと気づいたからである。


・・・さて、ブログが久々の更新となったために文章が上手くまとまらない。
自分が何を伝えたいのかがわからないから、まとまるはずもないのだが。

でもまあ、何事も、今後は続けていこうと思った。
このブログも一度はやめかけたけど、続けることで価値が出てくるかもしれない。

2017年もそろそろ半ばまでさしかかってきたが、この一年で僕は大きく変わってみせる。


そんな決意表明的な、日記を書きたかったのかもしれない。