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るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

掃除の神様

僕は今スペインの北部、ビルバオという地にいる。

仕事の都合で出張に来ていて、一ヶ月ほどの滞在なのでホテルを取っている。このホテル、一日100ユーロなのだが、部屋の広さで言えば日本のヒルトンのツインルームくらいの広さである(とか言いながらヒルトンのツインに泊まるほどのリア充ではなくあくまで予想)。

これほどまでに広い部屋であれば、清掃の人も大変だろうなと思う。日本のビジネスホテルみたくいろいろ密集していないから、掃除に苦労することが容易に想像できる。そのうえ、持ち前の寝相の悪さで朝起きたらベッドはふたつともぐちゃぐちゃになっているので、清掃の人は二つ分のベッドをメイキングしなければならない(一応ベッドメイキングするのだが、あの職人技並の綺麗さにはとてもじゃないができない)。

そうやって部屋荒らしの生活が一週間ほど続き、ようやく先週の土曜日休みに入った。平日は朝から夜まで活動していたので、土曜日はゆっくりしようと決めていたが、昼頃になって小腹がすいたため、コンビニに行ってチョコバーでも買おうと出る支度をした。寝ぼけ眼のままパーカを羽織りドアを開けると、黒い半袖のポロシャツを着た、中東系の顔立ちの男性がノックをする姿勢で僕と目が合った。

ドアを開けて予想だにしない展開で僕は一瞬ひるむが、黒服ポロシャツと彼が手に持っていた雑巾のおかげで、彼が「掃除のおじさん」であることはすぐに認識できた。

"Hola" と言うと、
"Hola, ▽#%?〇((〇///...??"

と突如、訳の分からないスペイン語を彼は笑顔で話してきた。勿論訳がわからないわけではない、Holaと言っているのだがそれは明確にスペイン語なのだが、僕の使用言語にスペイン語は含まれていない。(大学の頃スペイン語第二言語で取っていた僕。自慢ではないが、再履の達人である)。

"Uh, what?"

英語で返すと、彼は困惑した顔になる。今度は身振り手振りを付けてスペイン語を喋る。部屋の中を指し何かを拭く動作から、彼が「部屋の中を掃除しますか?」と聞いてきていると僕は推測した。

"Um, it's okay, it's still clean and I'll just come back in ten minutes, so I don't need a clean up"

英語は全く話せなさそうだから、ジェスチャーを付け加えた。手をお腹の前でパーにして細かく振る、日本人の典型的な拒否のサインで。
だが、彼はまだ何かを喋ってきた。部屋の中を指さして、掃除のジェスチャー。迷った挙げ句、僕は彼を部屋の中に招き「ほら、綺麗でしょ?」と言った。ベッドは一応形になっていたし、散らかした痕跡もない。バスタオルもまだひとつ、使用できる状態にある。我ながら綺麗に保ったものだと、鼻を高くして彼を見た。

すると、なんということでしょう。それまで笑顔だった彼は、部屋の中を見て、笑顔でなくなっていた。真顔だった。あれほど完璧なスペイン人の真顔を、僕はその日初めて見た。あれ、何か間違っているのか?と思いながら、僕は彼におそるおそる言う。

"So, you don't have to clean up the room, okay?"

だが掃除のおじさんは、今度は懇願するような顔で僕にスペイン語を喋ってきた。最後に "five minutos, five minutos" と指を三本立ながら言ってきた。5分か3分かわからなかったが、多分絞り出した"five"という英語を間違えたのだろう。彼はこの部屋を3分でいいから片付けさせてくれと言っていた。

え、俺の部屋そこまで汚いですか?と思いながら、そのプロ根性に僕は負け、頷きながら"Okay, then please, muchas gracias" と言う。すると彼は満面の笑みで廊下にあるかごへと駆けていった。

 

スペインはアメリカなどと違い、チップの制度はない。だから彼が何故そこまで掃除をしたいのかがわからなかった。コンビニでポテトチップスを買いながら、あのおじさんの笑顔を思い出す。そして、真顔になった瞬間も思い出した。その目は、部屋の隅々までをも見ているかのような目だった。・・・おそらく彼は、掃除の神様なのだろう。掃除をすることに人生の全てを捧げ、これからも捧げるつもりでいるのだろう。掃除の代名詞として、彼の顔は僕の中で生き続けるだろう。

 

エレベーターの中で時計を見ると、ちょうど十五分外出をしていた。もう戻っても、おじさんは部屋にいないだろう。全てが綺麗になっていて、彼が存在していた痕跡すら残さないのだろう。少しだけ、不安になった。あのおじさんは、掃除をすることで、全てを綺麗にするだけでなく、自らの存在をも消してしまうのではないか。部屋に入った瞬間、僕は「この部屋は掃除された」という事実さえもなくなってしまうのではないか。掃除の神様なのだ、記憶も片付けられても、不思議ではない。

 

部屋に戻ると、ドアが開いていた。

 

おじさんはまだ掃除していた。