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るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

一人称から見える日本人の心に潜む狂気

僕は一人称の中に日本人の狂気が見え隠れしている気がする。

一人称。自分のことをなんと呼ぶか?
僕の場合は「僕」である。だが、時にそれは「俺」や「私」になったりもする。ひと昔前、子どもの頃はよく「自分は〜」とか「うちは〜」なんて言ったりもしていた。それ以外にもネット上で「ワシ」や「ワイ」と言ったり、女性なら「あたし」とか自分の名前を一人称として使ったりということもあるだろう。

僕らの使う一人称は、他の国に比べ遙かに多い。アメリカではほとんどが " I " を一人称に使い、スペインならほとんどが " Yo " を一人称として使う。男女関係なく、大人も子どもも関係ない。ごく稀に自分の名前を一人称に使っていた子を小さい頃に見た記憶があるが、99%以上は一人称が定まっている。
さらに日本では、その一人称が時と場合によって適切、不適切という文化まである。例えばビジネスの場においては、目上の人に対して「僕」を使うのは不適切だと言う。一般的なビジネス現場における一人称は「私」、位があがるに連れ「僕」を使うことが許される(という文化がある会社も存在する)。ビジネスの場において「俺は〜」なんて客先に向かって言う人は聞いたことがない。つまり、文化的に一人称の複数使用が公認されているということである。

面白みは、一人称によって自分のアイデンティティや態度が多少変わってくるところにある。
他人がどうかは知らないが、僕の場合、一人称を使う時は大抵へりくだったり、相手が自分よりも立場が上と認識して使っている。ビジネスの場においては「僕」よりも「私」の方が適切であると前の職場で教わったものの、「私」になるとそれはどこか他人事のように感じてしまい、当事者意識を持つために職場でも「僕」を使っている。「僕」を一人称として使う時の僕は、どちらかと言うと穏やかになり、また発言にも気を付けるようにしている。つまり、言っていることが全て本心、というわけではなく、どちらかと言えば相手の発言の先を読みながら、いかに自分にとって優位な状況に持って行けるか考えながら話をする。
一方、友人や後輩と喋る時、一人称は「俺」に変わる。立場が同じ、自分が誰かに指導をする場合、こういった一人称を使う。この時は、誠実よりも率直で、どちらかと言うと乱暴になる。乱暴といえば語弊があるかもしれないが、十分考えてから発言するのではなく、思ったことをその場で口に出し、会話の内容は言葉を発している間に組み立てている。そのため発言に矛盾が生じたり、うまく説明できないことが往々にしてある。「まあ、結局何が言いたいかよくわからんけど、こういうことやと思う・・・」みたいな語尾がついたりする。
稀に「私」という一人称を使ったりもする。それは極めて単純で、僕の場合は相手を信用していない時に「私」を使う。にこやかなスマイルを見せながら「私は〜」なんて相手に話している僕は、心の中では相手に隙を与えまいと常に警戒をしている。笑顔の裏には「ああ、こいつ俺苦手だわ・・・」なんて思ったりもしている。
これらは、不思議と、全て無意識下において決定づけられている。「この人の前ではこの一人称を使おう」なんて考えもせず、ただ自分にとって対面した相手と一番話しやすい、接しやすい一人称が口からこぼれているという感じだ。

全員が僕のように一人称を無意識に使い分けているわけでもなければ、定まった一人称だけを使う人も僕は知っている。一方で、やはり大多数は、一人称が喋る人や状況によって変わる者が大多数に思える。こういうとき、無意識にその思考や言動は一人称によって違うのでは無いかと思った。僕自身が、そうであるように。

 

一人称が決定するまでの過程に、僕は最初、「相手」「状況」「伝える内容」と「自分自身がどう思われたいか」を全て考慮し、無意識的に適切な一人称が発せられるものだと思っていた。だが、より恣意的な力が瞬時にして作用していることを考えると、一人称は思考した結果に出るものではなく、反射に近い形で発せられているのではないかという考察をした。これらは全て内的要因にある。相手や状況も、認知するのは自分自身であるために内的要因と分類した。だが、こういったものは思考を辿る必要があるために、反射というにはプロセスを踏みすぎている。

そのため、「相手」によって変えているのではなく、「自分自身が相手をどう分類しているか」によって変えている、という結論に達した。「自分自身が相手をどう分類しているか」であれば、より直観に近く、反射にも近い速度で認知ができる。内的要因であるにせよ、より自然な無意識下の選別である。

では、逆説的に考えてみよう。
「相手をどう分類しているか」によって一人称が決定づけられているのではなく、一人称によって相手の分類が決定しているのだとしたらどうだろうか?たとえ相手が恋人であっても友人であっても、彼ら彼女らにそぐわない一人称を使い続けていれば、だんだんと関係生がその一人称における分類に遷移する、ということである。これが真実だとすると、僕らが他者と築いている関係性は、内的要因ではなく、外的要因によっても決定づけられてしまうことが真であるということになる。

頭の中に友人を思い浮かべて、彼との会話をしばらく想像した。いつもは「俺」を使う間柄の彼に対し、僕は敢えて「私」と言い続けた。僕が「私」と言っている間は、言葉の選別や会話の内容も自然と距離を置くようになっていた。笑いながら「私」という僕が見える一方で、心の中で僕は一切彼との会話に笑っていなかった。思考を探るように、僕は目を細めながら彼の表情を窺っていた。
一度、これを読んでいるあなたにも想像してみてほしい。友人を一人思い浮かべ、彼/彼女に対していつもは使わない一人称で話をしてみて欲しい。最初は一人称に落ち着かず、慣れないが、10分も想像していると、その人との会話の内容はいつもとは変わっているのではないだろうか?

 

これによって見られる狂気は2つ、存在する。

ひとつは言わずもがな、人格が複数あるということである。人格というと大袈裟かもしれないが、思考や言動が多少なりとも変わるのであれば、それは一種の別人格であると言っても過言ではないだろう。ビジネスとプライベートだけでなく、その中においても分類されるというのは、もはやオンオフという話では済まされない。究極的に言えば、個々によって見せる人格が違うのである。

それが状況によって全て依存しているのではなく、一人称という完全外的な「記号」によって関係生が制御されるというのが二つ目の狂気である。人との関係性が、自身の発する記号によって崩れてしまうことがあり得るのだ。それは極めて意図的で恣意的な作用ではあるものの、一人称を決定づけてしまえば適切な関係性を見失ってしまう可能性がある。同時に、一人称を変えることによって、それまで嫌悪していた相手に違った印象を持つこともまたあり得る。そうなると、僕らの感情は一体なんなのだろうか?ということになる。

他人に対して抱く感情は、記号によって決定づけられるのだろうか。

なんてことを考えていたが、婚約者との会話を想像してみると、いつまで経っても関係性も、愛情も変わらないことに気づいた。これだけは変わらない真実なのだな、と、のろけて終わることにしましょう。

 

結局のろけたいだけやないか!

複数の自分の声がツッコミをいれてきたような、そんな気がした。