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るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

青こんにゃくの末路

京都から東京に行くために、夜行バスを久しぶりに使うことにした。最後に乗ったのは就職活動の時だった気がする。そうすると、今から4年くらい前になる。幸運にも、道中ずっと隣の席が空いていたため、僕は手を広げ足を広げて眠ることができた。
さて、新宿の新しいバスターミナルに到着してから、僕は恋人の最寄り駅に向かうべく電車に乗り込んだ。前夜、遅くまで仕事をしていたので、彼女に無理をして起きて欲しくなかった。あくまで「俺もネットカフェで寝てるから、起きたらメールちょうだい」というていで、彼女の最寄りのカフェで待とうと決めていた。
中央線の電車に乗り込むと、席がひとつ空いていた。両側に男性が座っていて少し狭い気はしたが、身をよじらせるように空いた場所に尻を置いて、除々に身体を中にずらしていった。ひと駅ほど過ぎたところで、僕はやっと席に深く腰掛けることができた。

 

落ち着いたところで、何気なく周囲に目をやる。土曜日の早朝だというのに席はほぼ全て埋まっていた。これが平日だったら立っている人もわんさかいるのだろうか、と思うと、東京はやはり人口が多いなと実感させられる。早朝の京阪や阪急がこんなに満員御礼なのは見たことがない。向かいに座る人は全員携帯を見たり、ゲームをしたりと、それぞれがそれぞれの持つ携帯機器の画面に向き合っていた。僕は読み始めたばかりの本を手に持っていたが、本を電車の中で読んでいることが時代錯誤な気さえしてしまうほどで、結局読むことなく鞄にしまい込んだ。

 向かって一番左に、40代くらいの強面の男性が座っていた。建築に携わっているものだろうか、土方の作業着のようなものを着ていた。或いはもっと若いのかもしれないが、彼のあまりにも怪訝な表情が、見た目の年齢をひきあげたのかもしれない。土方男の斜め前方に、たて縞の入った青いスーツを着た男性がつり革を掴んで立っていた。それが原因であることが、動作ですぐにわかった。

スーツを着た男は少し禿げ上がっていて、スーツはぴちぴちフィットのジャストサイズだった。腹いっぱい食ったらワイシャツのボタンが弾け飛ぶんじゃないかと思うほどに腹も出ていた。顔は童顔、おそらく30代前半かと思う。

男は、つり革を持ちながらも、極めて不自然な動きをしていた。眠気なのか、酔いなのか、つり革を持ったままぐでんと腰を曲げて「く」の字を作ったり、右足に軸を置いて綺麗な一回転を見せたりもした。電車の揺れに合わせ、首の骨が折れたかのように頭は前後にぐでんぐでんと揺れていた。つり革を掴んでいないもう左手は何かを掴もうとするが空を裂くばかりだ。

その軟体生物のような動きとぴちぴちの外見から、僕は彼を「青こんにゃく」と命名した。

そのときは朝から酔っ払いがいることに驚いていたが、今思えば青こんにゃくが右手一本で身体の全体重を支えていることにも驚くべきだった。

はじめ、土方の男性は「前方の青こんにゃくがいつ嘔吐するかわからない」不安から不機嫌な顔をしているのかと思った。だが、見ているうちに、そうではないことに気づく。

「なんなんですか、ったく、本当に。」
「なんなんですか」

と、土方男が言っているのが聞こえた。おお、ちゃんと敬語を使っている。
つなぎを着た険しい顔の男性は怖い、何ああればすぐに怒声をあげて鉄パイプを振りかざす、というのが僕の中で醸成されたイメージだったが、彼は意外にも冷静に喋っていた。それだけで僕の心の中で拍手喝采状態だった。

だが、土方男の完璧な台詞に対して、青こんにゃくから返答はなかった。まるで自分は沸騰した鍋に入ったおでんの具であるかのように、ただぷるぷると揺れ続けていた。

目の前で争いが起こることなど決しては望んではいないが、僕は好奇心から、彼らから目を離すことができなくなった。

青こんにゃくをよくよく見ると、土方男があの台詞を吐いた理由がわかった。
初見では分からなかったが、彼の表情の奇怪なこと。ぐでんぐでんと身体をくねらせ揺らしながら、満面の笑みで土方男を見ていたのだ。
「青こんにゃくが、揺れ、踊りながら満面の笑みを浮かべている」
それだけでも不快だろうに、その笑みが自分に対して向けられているものだとしたら怒るに決まっている。何か起こるのではないかという腹黒な期待が、僕の鼓動を早くした。

その後も土方男はちらちらと青こんにゃくを睨みながら何やら呟いていたが、青こんにゃくは「電車の中では手を出せまい」と言わんばかりの表情で、土方男を見下していた。土方男は端に座っていたので、その隣に立って、土方男の顔の近くに顔をやったりもした。
「ぬふふーぅ」と言って、両の手の指をぴらぴらと動かしながら土方男を挑発したりもした。

ああ、これは。

爆発寸前だ。

そう思った。

青こんにゃくが赤こんにゃくに変わる瞬間が、すぐ目の前まで来ていた。

だが、土方男が目的としている駅に到着した。彼は結局何もせず、さっさと電車から降りた。去り際に怒鳴ったりもしなかった。大人である。何事も起こることなく終わってしまった目の前の喜劇に少し落胆したものの、土方男の男気だけで僕はある意味満足していた。

そのときの青こんにゃくはと言えば、開く扉の反対側に避難して流れ出る人の波を避けていた。相変わらず奇妙な動きをしていたが、目線は反対側扉の窓の向こうにあった。
流れがなくなった後、つまり電車のドアが閉まる直前、青こんにゃくの目は土方男の座っていた席を見やった。土方男がいなくなったのに気づいたのだろう、猛ダッシュで、閉まりかけたドアに突進し、そして、閉まったドアに激突した。あまりの瞬発力のある動きだったので、こんにゃくは激しい衝突音を車内に響き渡らせた。

 

そのまま仰向けにばあんと倒れ込み、呻きをひとつあげてから、彼は静かになった。

 

立川の駅について、電車からはまた多くの人が降りていった。

 

僕もその流れに身を任せ、電車から降りる。

 

青こんにゃくは、朝陽を全身に浴びながら、電車の中で静かに眠ったままだった。