るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

外国のニートを観察していたら、鳩の新たな発見に繋がった。

スペインの若者は、平日であってもよく外をうろついている。

公園なんか通ると、ひとつの公園につき2人くらいの若者がベンチに座っている。

彼らはスマホを見ていることもあれば、音楽を聴いて目を閉じていることもあるし、はたまた何もせずただ口を半開きにして前方を眺めていることもある。

 

まあ、経済的な理由があるわけで(今googleで調べてみたら、スペインの失業率は2017年4月時点で17.8%らしい)、仕方ないと言えばそれまでなのだが、それなら家に引きこもったり、ハロワ行って頑張ってこいよ、とか思う。

日本で完全なるニートが公園のベンチに座っている確率は、限り無くゼロに近いだろう。彼らはハロワに行くか、日の当たらないところで苔に進化しようとしている。スペインのように、外で光合成などしない。

 ニート文化の違いを面白いと感じながら、僕は同年代の彼らが何を考えているのか知りたい、という衝動にも駆られた。

 

そんなわけで、先々週、仕事がたまたまない平日の昼下がりに、スペイン青年の脳内を観察する課外活動のため僕は公園に赴いた。

 

幾つか公園はあるのだが、ちょうどホテルの前に大きな公園があった。

その公園を一周しないうちに、僕は理想的な人物に出逢えた。

20代半ばの男。少し体格の良い彼はおよそ平凡な恰好をしていて、音楽を聞くでもなく、スマホを見るでもなく、手に持った草をぶちぶちと細分化していた。

 

近代機器を手にしないアナログな彼は観察対象としてちょうど良い。

 

僕は彼の反対側にあるベンチに座って、しばらく挙動を見ることにした。

手に持った草をちぎり続けたり、爪を噛んだり、たまにスマホを出して何やら操作したりしていた。携帯は最低限しか見ず、用事が終わればポケットにしまうという健全な状態だった。しばらくすると席を立つが、近場にある長めの草を取ると、再び席に戻ってちぎり始めた。

 

さて、そんな感じで彼を観察し続けたが、データとしてはあまり有益でないものしか入手できなかった。日本のニートも爪を噛むだろうしスマホも触るだろうし、そう考えると

・スペインのニートは草をちぎりたがる

これくらいが入手できたデータである。これではあまりにデータとしては乏しいし、到底納得できるものではなかった。もやもやしている中、彼の挙動を見ると、ふと、携帯を見ていない瞬間に目線が動くのに気づいた。

 

僕はすかさず彼の目線を追う。

彼の目線の先には、鳩がいた。

完全に余談だが、昔友人に鳩の絵を描いたら「それは鳩ではない」と言われたことがある。彼はこれが鳩には見えないらしい。今でも不思議でたまらない。

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 さて、話を戻す。

目の前には鳩がいた。

ニートの男は、その鳩がとことこと歩く姿を、目で追って眺めていた。

何故鳩を見るのか?鳩に何かを見出しているのだろうか?

 

同じく、僕もその鳩を目で追いかけ、注意深く観察した。

そして気づいたのだ。

 

僕は今までにない大発見をして、思わずその場で立ち上がる。勢いよく立ち上がったので、鳩も驚いて飛び立ち、青年もこちらをがばっと見る形になった。

 軽く笑顔を浮かべながら申し訳ないという会釈してから、僕はホテルに戻った。

google検索で、自らの気づきを入力した。もしかすると、日本ではまだ誰も気づいていない発見かもしれない。

 

鳩が頭をかくかくする理由 _

 

普通にあった。

しばし、軽い絶望に打ちひしがれる。

matome.naver.jp

 

気を取り直して、僕は自信の研究結果のまとめに入った。

 

■スペインの同世代ニートを観察した研究結果■

スペインのニートは、おおよそ全員が平日、休日問わず公園に赴く。

日中公園に行く理由は以下の通りである。

①筋力向上のための草の細分化

②身体に光合成を促すため

③鳩の特殊な身体構造の研究

自身の健康維持に勤しみ、鳩という普遍的な生物の行動原理を理解しようとする姿勢は真面目・勤勉であり、人間の鏡であると言える。 

ー以上ー

 

以上が結論である。観察は数分にわたり行った。その間、目を離せず非常に困難であったのも事実だが、ひと通りの観察を行え、また新たな知識獲得にも繋がったため、十分満足のいく結果が得られたと僕は思っている。

 

お題「課外活動」

押ボタン症候群によって起こるミクロな財政危機

「押ボタン症候群」という症状がある。

http://ja.uncyclopedia.info/wiki/押ボタン症候群

押ボタン症候群(おしぼたんしょうこうぐん、英:push the button(switch) syndrome)とは、押してはいけないボタンを押したくなるという衝動が押さえられなくなる症例全般(症候群)を指す。 押ボタン症候群(ボタンプッシュシンドローム)は誰もが羅患する危険性を有しており、出生・身分・人種を問わない。

 

おそらく誰しもがかかったことがあるのではないか、押ボタン症候群。

昨今、全人類が押ボタン症候群の潜在的な恐怖(第三次世界大戦の火種)に怯えながら生活していかなければならないほど、深刻な病気である。

また厄介なことに、押ボタン症候群に発症した人間を他と区別する方法は見つかっておらず、発症していることに気づいても、病院に駆け込んだところで治療薬を貰えるわけではない。そう、現在世界には、押ボタン症候群に対するキュアは見つかっていないのだ。

 

かくいう僕も、おそらく押ボタン症候群を発症している人間である。

きっかけは小学生の頃、学校の階段横にある非常ボタンだった。ボタンは赤くて、プラスチック越しにあって、いかにも「押しちゃいかんぜよ」という雰囲気を醸し出していた。寧ろそれは「押してくれやい」と言っているようにも感じたのだが。あれが全ての始まりだった。

 

しかし、子どもの頃の押ボタン症候群というのは奇跡の一種なのではないかと僕は思っている。押してはいけないボタンを押したくなるのは何故か、それを考えるとわかる。

それは「好奇心」である。

 

赤いボタンを押したらどうなるのか。

学校はパニックになって、僕は警察に連れて行かれて、親は泣いて、友達には恐れられ、やがて数年後僕は告白文を出すのだろうか。少年ながら、あの赤いボタンを押しそうになった時、僕はそう考えたことがあった。押してはいけないと理性が嘆きながら、押した後どうなるのかを知りたいと本能が囁く。

つまり、未知に対する興味であって、未知を見たいという好奇心が生み出した現象。

 

想像力と知識欲を伴った論理的・理性的な好奇心が「押ボタン症候群」の正体である。

 

好奇心とは、人間が成長するにあたって必要不可欠な要素であり、つまり人間が人間たりえるうえで必要不可欠な要素である、とも言える。そういった好奇心のもと、学校の非常ボタンを押したくなるのだから、これは脳の発達により起こった「奇跡」を体現していると言っても過言ではない。

 

しかし、大人になって出てくる押ボタン症候群というのは、質が少し異なる。

また、ここでいう押ボタン症候群の症例は昔のそれではなく、ボタンそのものにも変化が生じている。最近特に増えている症例として「魔法石」がある。

 

スマホのゲームなどそうなのだが、しばらく遊ぶと、ゲーム内での体力がなくなってしまう。クエストに行くためには体力が必要だが、時間をおかずにプレイするためには、魔法石を消費しなければならない。

10連ガチャを回そうとすると、体力回復の何倍、何十倍もの魔法石を消費しなければならない。キャラガチャ、装備ガチャ、イベントガチャなど様々な魔法石消費の場が用意される。

 

いずれ僕たちは「魔法石1000個を¥9,800で購入しますか?」という画面に辿り着く。

 

 

魔法石とはとても特殊なものである。

 

それは、別世界の僕たちを強くしてくれる。

現実世界の財布を空にすればするほど、別世界の僕たちは成長する。

何万もの人が憧れるような装備が、魔法石をごまんとかければ手にはいるのだ。

 

また、魔法石を必要とする人間は限られている。

現実世界で富みや権力のあるものは、大概魔法石など必要としない。

むしろ、現実世界で富みや権力を持たぬものが魔法石を求める傾向が強い。

 

 

 

そんなわけで、別世界での自らの成長を願って、現実世界での稼ぎを犠牲にし、僕たちは10連ガチャを回すに至る。

ここでいう購入ボタンは、神聖なものである。

現実世界の稼ぎと、別世界での成長を天秤にかけ、熟考の末に押したボタンである。

もはやそれは押ボタン症候群ではなく、ただ単に葛藤のうえでの購入なのだ。

 

だが、ゲームが進んでいく内に、我々は押ボタン症候群に悩まされることになる。

それは課金額が数万を超えたあたりから、或いは、別世界での自分が十分に成長したあたりで発生する。

 

「あれ、魔法石がだいぶ減っとるやん、これやったら次のイベ持たんな・・・」

「よし、課金しよ」

 

とまあ、こんな感じである。

そこにはかつての "別世界駆け出し勇者" の姿はなく、ただただ金をつぎ込む廃人の姿がある。購入ボタンを押してはいけないとわかっているのに、脳が麻痺して押してしまう。魔法石を購入することが「安心」の材料となる。

ここでいう押ボタン症候群発症の根源は「好奇心」ではない。

好奇心という崇高な奇跡ではなく、より動物的・本能的な「安心」が根源なのだ。

魔法石が足りなくなったから購入する。ないと、落ち着かないからボタンを押す。

購入を繰り返せば安心する、だから無限大の魔法石を求め、指は「魔法石1000個を¥9,800で購入しますか?」の「購入する」ボタンを連打する。

本来の押ボタン症候群から少し乖離はあるが、時代とともに、ボタンも、その症例の質も変わってきているのだ。

 

大人になった時に発症する押ボタン症候群。

国のトップが発症すれば世界的カタストロフィになる可能性も秘めているが、いちサラリーマンであっても、家計が財政危機になりかねない。

 

末恐ろしい。

泡沫の20ユーロ

はてなブログを書き始めて一年近く経つが、最近になって新しい機能があることに気がついた。

編集画面の<NEW>欄に”お題スロット”というタブがある。(おそらく前々からそこにあったのだろうが、今日の今日まで気づくことがなかった)

 

何やら良くわからぬまま押してみると、以下のような文字が。

お題「ちょっとした贅沢」

なるほど、これをテーマにして記事を書くのか。

 

というわけで、今日は「ちょっとした贅沢」という内容でブログを書いていく。

今現在、出張でスペインにいるわけだが、この国で僕はちょっとした贅沢をしている。というか、現在進行形での贅沢だ。

 

僕は今、スターバックスにいる。

 

norakitsune.hatenablog.com

 

 上の記事は数時間前に書いたもの。

これに書いたとおり、ホテルのワイファイがあまりにも通じないため、わざわざスターバックスに来たのだ。机にはPCとキャラメルフラペチーノを置いて、優雅なお昼を過ごしている。

 

さて、このキャラメルフラペチーノ、値段は4.3ユーロである。

今の換算で考えると、およそ500〜600円なわけだが…これほどまでに「ちょっとした贅沢」に該当するものがあるだろうか?

スペインに出張に来て、オフの日に外を観光するわけでもなく、スペイン料理を食べるわけでもなく、日本にもデフォで置いてあるキャラメルフラペチーノを涼しい室内で悠々と飲む。

 

完璧だ。

これ以上ないくらいの「ちょっとした贅沢」である。

 

だが実は、今この状況下においては、これは「ちょっとした贅沢」ではない。

 

スペインでおよそひと月を過ごし、残り1週間ほどで帰国予定である。

そんな僕の財布の中身。

 

20ユーロ。

 

スペインに来た時は250ユーロあった金が、今となってはこれだけだ。

実際、ホテルはクレジットカードで支払っているし、現金を使う場面はかなり限られているが、昼飯を食べるようなバルでは、クレジットカードは敬遠される。一食5ユーロするかしないかなので、クレジットカードを使うと店が損をするらしい(ロイヤリティか何かの関係、スペイン語で言われたためよくわからない)。

つまり、僕は昼飯は大体現金で支払っている。あとはスーパーで買う水だったり、主食としているお菓子類も現金精算だ。

これらに金を費やし続けて現在残り20ユーロ。

 

残り一週間を20ユーロで過ごす。

 

泡沫の20ユーロ。

 

一ヶ月一万円生活というのが昔黄金伝説であったのを記憶している。ひと月一万円で生活!そんな設定が面白くてたまに見ていたが、今、僕はこれと似た状況に立たされているのだろう。

 

なにせ、現金2000円で、一週間を異国で過ごすからだ。

去年の滞在を含むと僕はビルバオには通算4ヶ月ほどいるのだが、かなり出不精なため、地理はほとんど理解していない。ことさら飯屋に関しては情報が少ない。

一日中ホテルに引きこもっている日もあるし、そんな時は大体スーパーで買ってきたポテチを食べて過ごしている。

 

しかしその生活でも、僕は一日5~6ユーロ程度使っている。

・ポテチ2袋 3ユーロ

・チョコバー2本 2ユーロ

・水1L 1ユーロ

ポテチは大体2袋、チョコレートバーは2本ないと厳しい。

朝ご飯はホテルのがあるとして、昼飯、夕飯にそれぞれポテチ1,チョコ1食べるわけだ。水は一食500mlもいかないが、まあ、一日1Lくらいは消費している。

そんなわけで、僕はスタバで過ごす数時間のために上記のようなだらだら生活の一日を使ってしまったわけだ。薄暗い部屋に帰ると、もう僕には摂取できるものが水くらいしか残っていない。

 

いや、冷蔵庫の中にスーパーで買ったピクルスが残っていたことを思い出した。

 

だめだ。

 

僕はピクルスが好きではない。

買った時に「何故僕はピクルスを買っているんだろう」と思いながら精算したのを覚えている。ちなみにこのピクルス、結構大きめの瓶に色々入っていてたったの2ユーロ。お買い得商品である。

 

まあ、ピクルスが嫌いな僕には関係のないことだが。

 

結論。

僕は今日摂取するものをなくしてしまった。

ちょっとした贅沢は、時に命に関わることがある。

この贅沢は続けてしまえば身体を壊してしまう。周囲から見ればささやかだが、僕にとっては、贅沢過ぎる贅沢だった。

 

 

wi-fiを飛ばせない豚はただの豚

この一ヶ月ほどをスペインで過ごしている。

昨年度から続いているプロジェクトもいよいよ終盤に差し迫っており、今回が最期の出張となる予定だ。
スタートから考えるとおよそ2年経過しており、なかなか感慨深いものがある。終わりまで油断がないように頑張っていきたい。

さて、そんなことでビルバオのとあるホテルに連泊しているのだが、ワイファイが数日前からほとんど繋がらない。メールもラインも通じない、周囲との連絡を断絶された状況に陥っている。

今朝、あまりにも繋がらないので、朝食のあと受付にクレームを入れにいった。

「ワイファイが全く繋がらないのだけど、プレミアムワイファイとかあるかな?」
「残念ながらそういうのはないわ」受付のピッグのようにビッグな女性が答える。
「そうか・・・どうしよう、メールも全く通じないし、仕事ができる状態ではないんだ」
「んー、ルータのリセットくらいならできるけど」ピッグのようにビッグな女性は前足で受け付け奥を指指した。
「ああ、それじゃあ頼むよ」
「10分くらいはかかるから、あとで繋がるようになるわ」
「ありがとう、助かるよ」

およそこんな会話をした。ピッグのようにビッグな女性は眼鏡越しにこちらを見て、軽く笑みを見せる。
僕が受け付けから去るや否や、彼女はズシンズシンと受付奥に姿を消した。

部屋に戻る途中、恋人にLINEを送ると、ポロリンと音が鳴ってメールは速やかに送信された。
なってことだ、あんな身なりの女性がこれほど速く問題を解決してくれるとは!
あまり人と交流を図っていないせいか、そんな感動を軽く覚える。
「受付の方、ビッグなピッグと思ってごめんなさい」
そう思いながら僕は部屋に戻る。

さて、ワイファイが使える状態になったところで僕は自室のPCでgoogleを開いた。


すると、なんということだろうか。起動しない。数秒前までは通じたワイファイがまた使えなくなっている。

「・・・まあ、そうは言っても彼女は元々10分かかると言っていたし、先ほどのはたまたま繋がったのかな」僕は気を取り直してシャワーを浴びることにした。

ついでに溜まっている洗濯物も洗うことにした。
日本のホテルで洗濯物を受け付けに預けたことがないから価格を比較できないが、スペインではホテルの受付に渡すと、どこも一枚数百円はかかる。
下着でさえ一枚500円くらいかかるので、僕は持参した洗濯板と洗剤を使って風呂場で洗濯物を洗うようにしている。だが、今泊まっているホテルに「風呂」はなく、一畳ほどのシャワールームのみ。そこにしゃがみ込み、上から降り注ぐ熱湯で服を濡らし、洗剤をつけて洗濯板でごしごしする姿は、昔漫画で見たみすぼらしい妖怪を連想させることだろう。

身体を拭いて服を着てから、部屋の反対側にある窓を開け放ち、これまた100均で買ったロープをかける。
洗濯物をひとつひとつ丁寧に干して、ひと仕事終えた感に浸りながら僕は再びgoogleを開こうとした。

繋がらない。

「んだよこれぇー」

小さな声で、だが確かな怒りを声に乗せる。
それが受付に届くはずがないのは必須だし、届いたところで日本語なんて通じないだろうが、何か言葉を発せずにはいられなかった。

「ワイファイを飛ばせない豚はただの豚だなぁ」

なんて、限りなく理不尽な悪口まで言ってしまう。


日本にいるときは携帯電話をあまり携帯しない非携帯電話ユーザーな僕だが、異国の地でネットが繋がらないのは致命傷だ。

そのとき、ポロリンと音が鳴った。
「あれ、メール入ってきたかな?」スマホを確認してみるが、メールは入っていなかった。念のためLINEを開いてみるが、恋人からに続けて送ろうとしたメ−ルは再送マークがついていて送られていない。
また、ポロリンと音が鳴る。ポロリン、シュン、ポロリン、ポロリン、シュン、みたいな音が立て続けになった。

洗濯物を干した窓を見た。
外からだ。

僕の部屋は5階の端にある。
おそらく、階下や隣の部屋で同じく窓を開けている部屋から聞こえてくるのだろう。
タイミングの問題か、複数の人間がメールをしている音が連続的に聞こえてくる。
ポロリン、シュンと聞こえると、別のところからはピコーン、ポワンみたいな音が聞こえる。

しょぼい電子音オーケストラといったところだろうか。

だが、それは僕の胸を高鳴らせる。

「今なら繋がるかもしれない・・・!」

そんな期待を胸に、僕は恋人に送りたかったメールの再送ボタンを押す。
スマホの画面左上、ワイファイのマークは入っている。
隣でくるくると円が回り、今か今かとその瞬間を待った。

「デュン」

駄目だった。

LINEを送れない時の音はなぜこうも絶望的なのだろう。

絶望に浸っている間も外からはシュンシュン電子音が聞こえ、小学校の頃いじめられていた記憶がフラッシュバックした。

部屋が高いところにあって、隅っこだからなのだろうか・・・
自分だけ文明から疎外される感覚だった。

受付に部屋を替えて貰おうか悩みつつ、その前にすべきことをした。
CotEditorを開き、ネタを書く。

日々のちょっとしたことがネタになる。
それを誰が読んでいるかなどわからないし、おそらく読者がこれを読んで有意義な時間を過ごせるとは思わないが、僕はそれでも書く。
ふんふんと書いていると、いつの間にかここまでで2000字を超えている。

書いている途中、正確に言えば "100均のロープを窓にかけるあたり" で「ニュキニュキ」と音が鳴った。
僕のLINEは「ニュキニュキ」音にしている。LINEでは「ポキポキ」と表示されているが個人的にはこれは「ニュキニュキ」である。

恋人からメールが入っていた。

「繋がった!」

しばらく恋人とのメールを楽しんでいると、メールが止まった。

原稿に戻る。
繋がる、止まる。
原稿に戻る。

彼女からの送信時間を見てみると、こちらに届く5分前や10分前になっていたりする。
やはり、回線が遅いのだ。

だが、繋がることはわかったので、部屋移動はしないことにした。
部屋移動をするには、今この戦場のように散らかった部屋を片付け、全てコロコロにしまう必要があるのだ。それほどの労力を、僕は午前中に消耗する気はないし、そんな気力も残っていない。

 

これからスターバックスにでも行って、仕事とブログに取り組むことにしよう・・・

 

異国の地で過ごした、とある日曜昼下がりの出来事であった。

暴投こそがコミュニケーションの醍醐味

こうやってブログを書いていると、難しいなと思うことがたくさんある。

文章を書くことが趣味の範疇を超えないため、0から100まで全てが不完全なわけではあるが、ブログのタイトルはその筆頭にあるだろう。
タイトルに一番自信がないわけではなく、タイトルを考えることが一番楽しいということである(僕の脳内は難しい=楽しいという単純構造になっている)。

ひと昔前まではタイトルは「簡潔」で「わかりやすい」ものが正しいものだと思っていた。
無論、その考えは変わらないものの、るなてぃっくをコンセプトのひとつにブログを書いているわけで、簡潔やわかりやすさという束縛からは自分を解放するようにしている。むしろ、簡潔とわかりやすさの逆をいっている。いかに中途半端かが、タイトルの決め手になっている(気がする)。

昔から「話の腰を折る」のが好きだった僕は、友人との会話でも、それが支障をきたしてもよいと判断した日常会話であればたびたび話の腰を折っていた。と言っても100%違う話題に変えるわけではない。それはただつまらない。
たとえばこんな風に話の腰を折る。

友人「今日スペイン語の授業やな、だるいわー」
野狐「そうやな、だるいな(あ、これは話の腰を折ってもいい話題だ)」
友人「スペイン語の宿題やった?俺まだやわ」
野狐「え、スペイン語の授業で宿題なんてあったっけ?(よし、狂わそう)」
友人「え、あったくない?」
野狐「いや、スペイン語の授業にそもそも『宿題』は存在しないよ」
友人「なに言うとん、今までも宿題あったやん(あ、こいつ会話を狂わせる気だ)」
野狐「だってそもそもあの先生日本語しゃべらんやん(気づいたな)」
友人「いや、そういう意味ではなく、宿題という概念はでも存在するやろ?」
野狐「宿題の概念が存在したところであのクラスでは『宿題』は存在しないよ」
友人「じゃああれや、スペイン語でいう宿題や」
野狐「その『宿題』とやらはスペイン語でなんと言うんだい?それを言って貰わないとわからないよ」
友人「俺もわからん」
野狐「no lo seということでいいのかな?」
友人「そうやな、わからん。てか、日本語わかってるやん。」
野狐「え、なんの話?」
友人「今、俺が日本語で『わからない』って言ったのをスペイン語に訳したやん。その調子で宿題も訳してや」
野狐「そいつはできないな、俺も宿題をスペイン語でなんて言えばいいかわからないから」
友人「じゃあ宿題の意味はわかってるの?」
野狐「は?あたり前やん、二十歳過ぎて宿題の意味がわからんやつがおるのか?」
友人「わかってるんやん。ところで、今日のスペイン語の宿題やった?」
野狐「ん、やってないよ」
友人「そうか、俺は今後どうしようかと悩んでいるよ」
野狐「今後は、前日までに宿題をするように心がけたらいいんでない?」
友人「いや、宿題じゃなくて、今後の君とのコミュニケーションのことだよ」

とまあ、こんな感じだ。
終始テンションを変えずにこういった会話をしていた。
無論、友人もこういった会話になり得る可能性を承知して僕に喋りかけてくる。
多分、僕のブログもこんな感じで進んでいるのだと思う。

だから、言ってしまうと、そのタイトルを考えることが難しい。
「暴投続きのコミュニケーション」とか「意味不明な会話」とか、簡潔に言えばそういうことなのだけど、そうなるとタイトルはまともになってしまう。タイトルがまともであればその中身はただの作られた狂気になる。
言わずもがな作っているわけだが、出落ちの如くその作為的狂気を気取られたくはない。
だからこそ、「なんですのんこのタイトル」という感じがちょうどよいと僕は思っている。

ここ最近のマイブームは、ちょっと長めのタイトルをつけることである。

一旦話を逸らすが、近年のラノベの多くがそうである。
なんだろう、短い簡潔な文章はもはや伝わらなくなってしまったのだろうか?
『転生したらスライムだった件』とかまでならまだわかるが、たった今調べたところ、最近で一番長いのは『(この世界はもう俺が救って富と権力を手に入れたし、女騎士や女魔王と城で楽しく暮らしてるから、俺以外の勇者は)もう異世界に来ないでください。ニートもチートも無職も自衛隊も、みんなまとめてかかってこい!』らしい。
ここまで来ると、まあ、長いのをネタにこうやって拡散して欲しいのかな、と思う。

さて、少し長めのタイトルをつけることがここ最近のマイブームである。
それは、長くしないと伝わらないからではなく、長くしたほうが変な感じが際立つからである。
上記の「なんですのんこれ」に少し拍車をかけるには、一呼吸では言い切れないタイトルの方がよかったりする(と、僕個人は思っている)。

例えば「ただ腰を折るのではない、思考の概念から外れた暴投をすることこそが真のるなてぃっくなのだ」とか。
例えば「友人を困らせたいのであれば会話が通じなくするのではなく、会話が通じるか通じないかの瀬戸際を歩くのだ」とか。

なんだかこう書いていると、さも自分が優れた書き手のように書いているようでむずがゆくなる。
そんなつもりは全くないので悪しからず。

 

一応いないとは思うが、上記のような面倒な会話を試みようと思う人がいるのであれば言っておく、やめておこう。

検索されなさそうな検索ワードに引っかかるような、そんな記事を書きたい

ブログ数はまだ全然足りていないが、今日はブロガーがしそうなことをしたいと思う。
ブロガーと言えば?そう、いかにPV数を伸ばすか。それこそが使命である。
これは自明の事実であり、いかに感動的な文章を書こうが、見ている人がいなければ意味がない。
人に読まれてこそブロガーはブロガーたりえ、人に読まれてこそ名は知れ渡る。
はてなブログさんも、閲覧者数が増えるブロガーを歓迎するに違いない。

ということで、ブロガーがしそうな考察「いかにPV数を伸ばすか」が今日の議題である。

さて、これまでに30ほどのブログを書いてきた。
10ヶ月でたったの30だ。まあ、それはさておき、はてなぶろぐの管理画面には「アクセス解析」なるシステムが備わっている。とどのつまり、閲覧している人がどういったルートから自分のブログに至ったかを知ることができるのだ。

今ではこういったアクセス解析のツールもあたり前となっているが、僕はこのシステムはネット界におけるソナー的存在だと思っている。
大海原で金塊をサルベージするとき、伝説を信じただけでは見つからないように、闇雲にブログを書いていたところでPV数が伸びるわけではない。ソナーが反応する方向に舵を切るからこそ、金塊は探り当てられるのだ。

さて、そういうわけで、アクセス解析画面を開いた。
この10ヶ月で約800件ほどの閲覧があるではないか。

ほとんどがgoogleから来ており、恋人や知人による検索がほとんどであるが、一部、外部からの閲覧もある。
外部閲覧では、検索エンジンにどのような検索ワードを打ち込んだかがわかる。
せっかくなので、一部をここで紹介して、さらに過去記事のURLを貼らせてもらおう。
この記事から他の記事へと読者を持って行き、効率的にPVを集めようと思う(ブロガーっぽいことをここに来て初めてしてみる)。

ではでは、お待ちかねの発表タイムー


記事名『未来へと繋がるブーケトス』
http://norakitsune.hatenablog.com/entry/2016/10/10/203521
googleより 検索ワード「ブーケを取る女の争い」
yahoo!検索より 検索ワード「ブーケトス 奇跡」
googleで検索した人にとっては少しは求めるものが手に入ったかもしれないが、yahoo!から来た人にとってはちょっと申し訳ない・・・ブーケトスに奇跡を信じて「ブーケトス 奇跡」と検索したに違いない。
それが、このブログを読んで、ブーケトスは奇跡ではなく、ただの争いであったことを知るのだから・・・


記事名『猫娘
http://norakitsune.hatenablog.com/entry/2016/10/17/091648
yahoo!検索より 検索ワード「lucky cat ウイスキー
yahoo!検索より 検索ワード「野狐商店 ブログ」
もう、本当に申し訳ない。読者にも見当違いのページに来させてしまって申し訳ないが、本坊酒造さんにも申し訳ないし、なによりこの「野狐商店」の従業員さんに申し訳ない。本坊酒造さんであれば、僕がただ彼らのウイスキーを好きであることを宣言しているだけだが、野狐商店さんからしてみれば一部の客先が「やばい、あの店はやばい」と足を遠のかせる結果となったかもしれない。みなさん安心してください、僕は野狐商店さんとは全くの無関係です。


記事名『新幹線を吞み込んでみたら世界が平和になった』
http://norakitsune.hatenablog.com/entry/2016/10/13/004042
yahoo!検索より 検索ワード「新幹線 平和」
何より衝撃だったのがこの検索をした人だ。なんだ、JRにでも面接に行こうと思ったのか?
なんだか想像したら面白くなってきた。地方から出てきたリクルートスーツを着た青年が言う。

青年「私は、新幹線が平和を持ってきてくれると信じています」
面接官「・・・ほう?」
青年「新幹線の最高速度は、時速約300キロにまで達します。今までは東京ー大阪間が何日もかかったのに対し、新幹線が誕生したことで今や2時間半と短縮されています」
面接官「何日も・・・いつの時代のことを言っているのかな?」
青年「無論、江戸時代とか、そのあたりです」
面接官「そうか・・・それで、経済的収益が新幹線の導入により、一層大きくなったと?」
青年「いえ、そこは大した問題ではありません」
面接官「なるほど、違う視点があるのか、面白い、聞こうではないか」
青年「新幹線を、吞み込もうとしている人がいるのです」
面接官「・・・???」
青年「新幹線を吞み込むことで世界が平和になると考えている人がいるのです。このように、新幹線はその速さを生かし、世界中の人に夢を見せているのです」
面接官「いよいよわからなくなってきたぞ」
青年「ですから、新幹線の存在は、それだけで人々を幸福にするのです!他の在来線では不可能です。これだけの速さがなければ、新幹線を吞み込もうと思ったりもしなかったでしょう、その人も」
面接官「新幹線の存在自体が人に幸せを与えるのは聞いて嬉しいのだが、その友達の幸福の定義には多少の疑問を感じるね」
青年「友達ではありません、ネットの人です。あくまで私見ですが、彼は『のぞみ』を想定して書いたものかと思います。形状が、口に入れやすそうなので」
面接官「・・・・・・」

なんだか想像するのがしんどくなってきた。
僕が面接官なら、間違いなくその場で「不採用」通知している。
青年よ、すまぬ。

それ以外にも幾つか検索ワードはあったが、最期の『新幹線 平和』以外は、至極真っ当な検索ワードだった。
つまり、よりPV数をあげるには、至極真っ当な記事を書くことが第一の条件であるとわかる。

 

・・・と、ここで思考を止める。

残念ながら、僕は別に今書いている文章が読まれようと読まれまいと気にしていない。

「これまでの考察は一体なんだよ!?」

そう思うだろう、まさにそれが狙いだ、意味がわからないだろう!?

言い切ってしまうと、僕は他者からの閲覧を「前提条件」としてブログを書いていないし、PV数を伸ばそうとも思わない。こう言うとブロガーを蔑んでいるように聞こえるかも知れないし、読者を馬鹿にしているように思われるかもしれないが、全くの逆である。

意味がある文章は、正直、もうすでにネット上に溢れかえっている。
僕がどれだけ新しいと思った話題をふったところで、それは二番煎じにしかならない。
それに僕の価値観は、すでに他のソースに影響されてしまっていることだろう。
影響された価値観を流布したところで、読者にどのような影響があるかは僕にはわからない。
価値観の善悪は、個人の生きる環境によって異なるのだから、軽々しく流布しようとも思わない。

いち個人として僕がブログを書く理由は明確であるし、それはいちブロガーとしての僕に干渉しない。
いちブロガーとしてブログを書く理由があるとすれば、無意味に意味を見出してもらうことである。
読者頼りではあるが、読者を信頼してこそ、だ。

あの「新幹線 平和」を調べた青年のように。
ほんとなんなんだあの検索ワードは・・・。

 

ようこそパラノーマルアクティビティ、或いはUSBスティックになり世界を救うか

こんな経験はないだろうか。

家族とオーケストラを見に行って、素晴らしい音楽に浸る幸福な時間を過ごす。
終盤、いよいよフィナーレという時、シンバルを持った男性が壇上から降りて、自分めがけて走ってくる。
狂気に満ちたその表情にひるんで動けずにいると、いつの間にか彼が目の前にいて、耳元で思い切りシンバルを鳴らす。
驚きのあまり起き上がって、それが夢だったことに気づく。
不意に起こされ動悸がしたため、水を飲もうとキッチンに向かう。
そこで、フライパンが地面に落ちているのに気づく。
シンバルの音の正体は、そのフライパンが地面を叩いた音だった・・・

いや、夢の中であっても耳元でシンバルを鳴らされることはそうそうないだろうし、フライパンが地面に転がっているなんてこともないだろう。あるとすればそれは、ようこそパラノーマルアクティビティと言わんばかりの心霊現象だ。

だが「意識の外(現実)で起きたことが夢の中の出来事とリンクした」なんてことはあるのではないだろうか。

最近減ったものの、大学生くらいまでは、僕はこれをよく経験していた。
音だけでなく、嗅覚を刺激されたこともある。

大学生の頃、講義が終わって昼頃に家に帰宅した僕は、前日の徹夜もありそのままリビングのソファに突っ伏した。
そのまま夕方まで寝ていたのだが、夢の中では友人とインド旅行を満喫していた。

よくわからない寺院で虎を追いかけたり、お坊さんの列に紛れ込んで歩いているといつの間にか自分も坊主頭になっていたり。ガンジス川に入った友人に変な湿疹ができて、病院に駆け込むや否や集中治療室に運ばれる、なんてこともあった。
あまりにも強烈な出来事が多く、今でも夢の内容の節々を覚えている。
かなり長い一日を過ごした後、無事退院した友人と一緒にご飯を食べに行った。
当然インドなのでカレーなのだが、美味しそうなカレーを前に、だがなかなか食べられず悶々としていて、ついに目が覚めた。

目を覚ますと依然として僕はソファに突っ伏していた。
既に夕方、キッチンでは親がカレーを作っている最中だった。

親がカレーを作っている姿を見て違和感を覚えた。
確かにリビングにもルゥの匂いは漂ってきている。家の周りを歩く人がいれば「あ、ここの家は今日はカレーか、いいな、うちは今日はなんだろう、ぶりの照り焼きがいいな」とか思うことだろう。

だが、肝心なのはそこではない。
確かにぶりの照り焼きは半端なく美味いが、そこは今、重要ではない。
重要なのは、親が「いつ」カレーを作り始めたかなのだ。

違和感を覚えた僕は母に質問する、そのカレーは何時頃から作り始めたのか、と。
母は答える、30分ほど前からだよ、と。これは、野菜を圧力鍋に入れる時間込みである。ルゥを入れたのは10分前くらいだと言う。
ともすれば、夢の中でカレーがにおってきたことの説明はつくものの、それまでの前段(友人とインド旅行に行くという過程)に疑念が湧く。


僕の身体は、意識は、来たるべきカレーの匂いを予知して、インド旅行の夢を僕に見せたのか?


実は冒頭の夢も、高校生の頃に見たものだ。実際はフライパンではなく、二段ベッドの上段で寝ていて、目覚まし時計を床に落とした音で目覚めたのだが。
だがどちらにせよ、夢の中では一定の時間、オーケストラを聴いていたのだ。


こうなると、自分には無意識の予知能力があるのかと、中二病的な発想になってしまう。
仮説をふたつ、立ててみた。

 

①人間には無意識の予知能力が備わっている
人間は通常、脳の3%しか使っていないというのは有名な話である。
映画 "LUCY" の中では、100%使うに至った主人公は最期USBスティックになるというwwwwwな展開を迎えたが、10%ほど覚醒した時点で予知にも似た能力を発現させている。
USBになるのであれば100%まで脳を使いたくはないが、大量の情報を脳内にインプットして仮説、演繹、帰納を多角的に用いれば、予知は十分可能なように思える。
上記の例においても、無意識下であれば、確率的に夕ご飯がカレーであることを想定してインド旅行の夢を見たり、目覚まし時計を柔らかいもふもふの布団の隅に配置したことが落下を予知する要因になった、なんて考えれば、予知能力も現実的といえば現実的であるように思う。

②夢の中の時間は、現実世界の時間の何百倍もの速さで進んでいる
予知能力よりももう少し現実的かつ単純に考えると、それは夢の中が現実よりも速く進んでいる、ということだ。
「夢の中のほうが速い?むしろ逆なのでは?」
確かに、一時間の昼寝の間に一日分の旅行をしたりすることはよくある。だが、夢は現実とは異なり、瞬間が連続して時間が進行しているわけではない。
現実は隙間無く埋められた無数の「瞬間」を繋がった結果「時間」という概念が存在するのに対し、夢はある程度の「瞬間」がつながりあって「時間」という概念を作っているに過ぎない。隙間が絶え間なくある夢の中で、結果的に時間が現実よりも早く進んでいると感じるに過ぎないのだ。
寧ろこの場合、夢の中の時間は早く進んでいる、と考えた方が自然である。
起きている間、人間は五感から取り入れる情報を大量に、それも絶え間なく処理する。特に視覚からの情報を頼りにしているというが、寝ている間は視覚からの情報を処理する必要はなくなる。ともなれば、脳内で出来事を全て処理することができるのだから、現実世界よりも素早く情報を処理できるのではないだろうか。
結果的に現実世界で起こっている出来事は、夢の中では遅く感じる。
カレールゥが鼻を刺激し、脳に達して「カレーの匂いである」と判断するまでの1秒間で、夢の中では一日を過ごせてしまう、と考えられなくもない。


残念ながら、僕の知識では全てが憶測の域を過ぎない。
今の僕は27歳らしからぬ妄想を膨らませ、人間の潜在能力にわくわくしているが、一方で、これをただの偶然として捉えているのもまた事実である。

だが、夢を持つことを諦めてはならない。
夢を持っているからこそ、夢に夢を抱くことができる。
僕は思う、夢は夢の最終形態であり、夢を現実にすることこそが真の夢である、と。
だから誰か、僕の夢見た夢の真実に辿り即き、僕の夢を叶えてほしい。

・・・夢がどの意味の夢を指すのかわからなくなってきたので、今日はここらへんで。