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るなてぃっく野狐

野良狐がゆっくりと錯乱していく

モスキート・シンドローム

夏がだいぶ近づいてきた。
毎年大抵、ふたつの事象が連続的に起こることで僕はそれを実感する。

ひとつ目は汗をかくこと。
幼少期をアメリカで過ごしたせいか、日本の、特に京都のじめっとした暑さに身体はどうも耐えられない。気づけば汗が額や背中や頭皮や脇から噴き出している。そのせいで、僕はグレーの服を着ることさえできない。年がら年中、白か黒の服しか着ないのは、それ以外の色だと汗が目立つからだ。
年がら年中と表現したように、僕が汗をかくのは何も夏だけではない。それが冬であっても、少し歩けば汗をかいている。自宅から会社まで徒歩40分という適度な運動をするには良い立地に住んでいながら、冬でも会社にたどり着く頃には長袖のシャツ一枚になっている。

そういう理由で、汗だけでは「夏が来た!」と思うことはない。やはり、ふたつの事象が連続的に起こることで、僕は夏を感じる。

ふたつ目の事象は、蚊に噛まれることだ。
春には身を潜めていた蚊どもは、夏の暑さとともにどこからともなく大量にやってくる。外をふらふら歩いているだけで2、3カ所噛まれる始末だ。実は今も、左の二の腕を掻きながらブログの原稿を書いている。

暑いだけならまだいいのだ。
寒い中で噛まれるのも、まだ我慢できる。
でも、ふたつが同時にやってくるのはいけない。


一カ所に痒みを感じると、不思議とそれ以外の部分にも痒みを感じるようになる。
気づけばあちこちを掻いていて、そのうち自身の感覚器官に猜疑心を抱くようになる。
だが痒いものは痒いわけで、不快感に思わず身体中の汗腺からじんわりと汗がにじみ出る。
これがクーラーの下だったら痒い部分を思い切り叩いて痛覚を刺激すればいいわけだが、暑い中で刺された部位を叩いても汗が飛沫となって飛び散るだけ。
水分があることで肌と肌の摩擦は限り無く減り、刺激らしい刺激を与えられない。
どうしようにも痒みだけは治まらず、叩いた手がびしゃびしゃになりながら、痒みに耐えかね、やがて僕は発狂する。
その瞬間、僕は「うわぁ夏が来た」と思うのだ。


お察しの通り、僕は「汗」と「蚊」のせいで夏が果てしなく嫌いだった。
嫌い「だった」と過去形の理由は、さらに察しのいい人ならば既にお気づきだろう。いや、実際にまだ夏を好きになってから夏本場を迎えていないから、本当に好きになれたかどうかは分からないが・・・


さて、そんなわけで僕は早速蚊に噛まれている。
今日もそうだし、一昨日前にバーから歩いて帰っている間にも、もれなく噛まれている。
バーで食べたビーフジャーキーでは物足りず、近くのファミリーマートに行って追加でビーフジャーキーを買ったのだが、その帰り道に掻かずにはいられないほどの痒みを首筋に感じた。
ふと触ってみると、首筋にぷくりとした膨らみを感じた。

その後、帰り道、恋人に電話をしながら、僕はひたすら蚊に対する愚痴を放った。
「また蚊に噛まれたよ」
「ほんとなんで蚊って人を噛むんだろうね」
「噛まなければ別に存在しててもいいんだけど」
「いや噛んでもいいから、痒みを残していかないで欲しい」
さすがは婚約者となった身、聞くに堪えないであろうどうでもいい愚痴を、彼女はうんうんと優しく聞いてくれた。
そしてふと「野狐は噛むって言うよね」と一言。

「野狐は噛むって言うよね」
「ん?」
「だから、野狐は『噛む』って表現を使うよね」
つまり、彼女は「噛む」という表現を使わないということである。
「ああ、うん、昔は『吸われる』って言ってたんだけど、『吸う』だと『血を吸う』だから、蚊よりも血がメインになっちゃう気がして。もっと蚊に対して憎悪を込める意味で『噛む』という表現を使うようになったよ」
と、意味不明だが実際にあった言語選択の遷移の自分歴史を語ってみせた。未だによくわからないが、僕の中では「吸う」は可愛らしいイメージになるのだ。「噛む」であれば、そこに凶暴性が垣間見える。そんな理由から、僕は噛むという表現をするようになった。
「うーん」よくわからない、と力なく音を伸ばす彼女。
それもそのはず、僕もよくわかっていないのだから。でもそのとき僕は酔っているから、再び同じような意味不明な言葉を繰り返した。そして、聞いた。
「君はなんて言うの?」
「食われる」
「食われる?蚊に食われる?」
確かに食うという選択はありな気もするが、同じ虫界の中に「食う」にもっと適した存在がいると思った。
「虫食い的な?」僕は聞く。
「そうそう」
「でもそれだと、虫に食われた服のイメージが先行してしまうよ」
「『蚊に』食われるって言ってるじゃん」反論する彼女。
でも、食うのが虫食いの虫のアイデンティティなのだから、その「食う」という表現を蚊にとられてしまったら虫食いしている奴らのアイデンティティはどうなるんだ、というまたもや意味不明な持論を展開することになりそうだった。すんでのところで抑え、「でもさぁ」とだけ言って反論を濁した。

しばらくすると彼女は電話の向こう側で「ふむふむ、ふーん」と言い出したので、何かを調べていることがわかった。どこかしらのネット調査で、全国では「蚊に〇〇〇」をどのように表現しているかという調査結果があるのだという。以下がその結果だ。

蚊に刺される  43.5%
蚊に食われる  39.8%
蚊に噛まれる  14.9%

なんと、彼女の食われる、僕の噛まれるを抑え、堂々の第一位に「刺される」があったのだ!
これには僕はさすがに「うぅーん」と言わざるを得なかった。
「いや、さすがに『刺す』は違うでしょう。蜂のアイデンティティはどうなるのさ」

人間にその行為をどう呼ばれようが、虫食いの虫も蜂も、蚊でさえ全く構わないということは承知。
だが、虫界の中では僕の好きな部類に入る蜂が、糞以下の存在である蚊と同じ表現をされるのは個人的に耐えがたかった。だってそうだろう、クマ蜂やミツバチのような可愛い奴らと蚊が対等に扱われていいはずがない!!

「まあ、そうは言っても刺されるが一番使われてるみたいだね」

これは非常に不快であった。箪笥にひっそりと身を潜めてたまにやんちゃをしてしまう虫食いの虫さんや、琥珀色に輝く蜂蜜を生み出す蜂さんたちと同等の存在なのだ。彼らのアイデンティティは、あの黒い害悪と同等に扱われると思うと、反吐が出る!

しかし、よくよく考えてみると、「噛む」という表現も危険だった。虫界ではいないだろうが、「噛む」というと、犬や猫を想起してしまう。「噛む」は、犬様や猫様にとってのアイデンティティなのである。

蚊を虫界から小動物界に招待するようなそんな表現は、断じて許されない。
無意識に侵してしまった自らの過ちに、僕は思わず泣きそうになった。

では、蚊にとって一番いい表現とはなんだろうか?
誰からも好かれない表現とはなんだろうか?

日曜日、ゴロゴロしたり散歩したり、ドラマを見ながら考えた。
月曜日、海外のお客さんにメールを打ちながら、日本のお客さん先を周りながら考えた。
仕事が終わってからベローチェに寄り、文字を書きながら、二の腕を掻きながら考えた。

そして、今さっき、ひらめいた。

ひらめきと同時に、左の耳たぶに痒みを感じる。
まさかと思って触ってみると、そこに、耳たぶとは別の、ぷくりとした不自然な膨らみがあった。

「うわ、耳たぶまで・・・蚊に掘られてしまった」

 

ええ、まさか下ネタで終わるとは、僕自身、予想外ですよ。

ほんと毎度、すいません。

 

自らの語彙力のなさに落胆し、その絶望に感覚が奪われていく中、二の腕と、耳たぶの痒みだけは強くなっていくのだった。

久々の更新はチョップドサラダのような出来上がり

僕は毎年、その年をどういう年にしたいかということを考える。
大抵は初日の出を見ながら、寝坊した時は、三が日の合間合間に。


2016年1月1日、つまり昨年の元日、僕は初日の出を友人と見ながら例年のように考えた。
そのとき、2016年は「自分を見つめ直す」年にしようと決めた。

見つめ直すというはあまりに漠然としていたが、とにかくそれまでの人生のことを思い返してみる日が続いた。こうやって文字に書き起こしてみたり、ベッドの上で呆然と考えたりした。
ベッドで考えていると、色んなことを思い出して、なかなか眠れなくて、次の日は決まって仕事が不調だった。こんなにも非生産的で非建設的な時間を過ごしていていいのだろうかと思うくらいに、僕はただただ考える日を生き続けた。2016年は、そう言う意味では大したことは何も為なかった。

振り返ってみると、無意識のうちに起こしていた様々な行動には一貫性があることに、まず気づいた。

簡潔に言えば、僕は「変化」を欲して生きてきた。

変化は自分のみならず、他人にも望んだ。

大学時代の後輩や、仕事場での先輩も、彼らの考え方を変えたりして悦に浸る。

僕自身も変わっていっているわけだが、周囲に及ぼす変化と自分自身の変化、その性質には乖離があった。

他人の変化は考え方や生き方である一方、僕自身に起こす変化は対外的なものだった。

つまりは、環境の変化である。

基本的に僕は好きなことをして生きている。こうやって文字を書いているのも、好きだからだ。

大学の時に様々な活動をしてきたが、それらは全て好んだ結果、興味を持った結果関わったものである。

そうして興味のあるものにどんどん手を伸ばして僕は生きてきた。

 

そして、ある日、必ず変化は起きる。
飽きたら、それまで金と時間をつぎ込んできたそれらを、一挙に放棄した。

 

僕にとっての変化とは、つまりそういうことであった。

 

放棄。

 

それは、ひどく冷たいものだった。
それは、ひどく勿体ないものだった。

 

「何故今まで気づかなかったんだろう」
ベッドの上でそう呟いた日があった。
さらに数週間が過ぎた後、僕はまたベッドの上で呟いていた。
「いや、気づいてたのかな・・・」

 

「放棄」を認めるのが嫌だったから、都合のよい「変化」という言葉を使っていただけだった。それはずっと前から続けていたことだった。

 

僕は、都合が悪くなると放棄する傾向がある。

さらに言えば、限界が見えたところで放棄をする傾向がある。

何事にも一生懸命に打ち込むも大して達成感を得られないのは、いつか放棄することがわかっているからだった。

放棄こそが、心のよりどころとなっていた。

 

それらは一気に見えた物ではないが、ゆっくりと言葉にできるくらい顕在化していった。
2016年が暮れる頃には僕はそのことに気づき、その頃、今の彼女と出会った。

 

彼女は不思議な人である。
会う日を重ねる毎に関係が深くなっていく感覚を覚えた(その魅力を伝えられないのが残念だが、独り占めしたい僕にとっては好都合かもしれない。いや正確には、伝えられないのではなく、独り占めをしたいから伝えられない振りをしているだけなのかもしれない)。

 

年越しは、二人で過ごした。
本当は伏見稲荷に行って、狐の面を二人で被って徘徊をした後、初日の出を面越しに見ようと考えていたが、漫才を見ながら彼女を抱きしめているといつの間にか眠ってしまっていた。

眠りにつくかつかないかの間に、僕は決めた。
「2017年は、本当の変化を起こす年にしよう」と。

 

そうして月日は流れる。
その間に、色んな出来事があった。

少し前までは一人でよたよたと歩いてきた人生を、一緒に歩いてくれる人が見つかったことを皮切りに、彼女の親に会って、たくさんの話をして、結婚を許してもらった。
仕事場では一番の年下にも関わらず、大きなプロジェクトに参加し、傲慢か慢心かは定かでは無いような横暴な発言も繰り返し、何故か役職をもらえた。

今までの僕なら、それらをまさしく「変化」と思っただろう。
もしかしたら、その変化が行き着くところまで行ってしまえば、またそれらを放棄しようと思ったかもしれない。

だが、文字通りそれらは「出来事」であって、変化ではない。
むしろ、変化の「結果」のようなものだろうか。

今はその変化を言葉に落とし込むことはできない。
漠然と、自分の中で何かが変わったような気がする。おそらく、それは単一的なものではなく、複数の事象が細かく変わりながら絡み合って、全く別の何かができているのだと思う。ひとつだけ確実に言えることがあるとすれば、その変化は彼女と出会ったから起きたことである。そして、今まで自分の感じてきたことが変化ではなかったと気づいたからである。


・・・さて、ブログが久々の更新となったために文章が上手くまとまらない。
自分が何を伝えたいのかがわからないから、まとまるはずもないのだが。

でもまあ、何事も、今後は続けていこうと思った。
このブログも一度はやめかけたけど、続けることで価値が出てくるかもしれない。

2017年もそろそろ半ばまでさしかかってきたが、この一年で僕は大きく変わってみせる。


そんな決意表明的な、日記を書きたかったのかもしれない。

一人称から見える日本人の心に潜む狂気

僕は一人称の中に日本人の狂気が見え隠れしている気がする。

一人称。自分のことをなんと呼ぶか?
僕の場合は「僕」である。だが、時にそれは「俺」や「私」になったりもする。ひと昔前、子どもの頃はよく「自分は〜」とか「うちは〜」なんて言ったりもしていた。それ以外にもネット上で「ワシ」や「ワイ」と言ったり、女性なら「あたし」とか自分の名前を一人称として使ったりということもあるだろう。

僕らの使う一人称は、他の国に比べ遙かに多い。アメリカではほとんどが " I " を一人称に使い、スペインならほとんどが " Yo " を一人称として使う。男女関係なく、大人も子どもも関係ない。ごく稀に自分の名前を一人称に使っていた子を小さい頃に見た記憶があるが、99%以上は一人称が定まっている。
さらに日本では、その一人称が時と場合によって適切、不適切という文化まである。例えばビジネスの場においては、目上の人に対して「僕」を使うのは不適切だと言う。一般的なビジネス現場における一人称は「私」、位があがるに連れ「僕」を使うことが許される(という文化がある会社も存在する)。ビジネスの場において「俺は〜」なんて客先に向かって言う人は聞いたことがない。つまり、文化的に一人称の複数使用が公認されているということである。

面白みは、一人称によって自分のアイデンティティや態度が多少変わってくるところにある。
他人がどうかは知らないが、僕の場合、一人称を使う時は大抵へりくだったり、相手が自分よりも立場が上と認識して使っている。ビジネスの場においては「僕」よりも「私」の方が適切であると前の職場で教わったものの、「私」になるとそれはどこか他人事のように感じてしまい、当事者意識を持つために職場でも「僕」を使っている。「僕」を一人称として使う時の僕は、どちらかと言うと穏やかになり、また発言にも気を付けるようにしている。つまり、言っていることが全て本心、というわけではなく、どちらかと言えば相手の発言の先を読みながら、いかに自分にとって優位な状況に持って行けるか考えながら話をする。
一方、友人や後輩と喋る時、一人称は「俺」に変わる。立場が同じ、自分が誰かに指導をする場合、こういった一人称を使う。この時は、誠実よりも率直で、どちらかと言うと乱暴になる。乱暴といえば語弊があるかもしれないが、十分考えてから発言するのではなく、思ったことをその場で口に出し、会話の内容は言葉を発している間に組み立てている。そのため発言に矛盾が生じたり、うまく説明できないことが往々にしてある。「まあ、結局何が言いたいかよくわからんけど、こういうことやと思う・・・」みたいな語尾がついたりする。
稀に「私」という一人称を使ったりもする。それは極めて単純で、僕の場合は相手を信用していない時に「私」を使う。にこやかなスマイルを見せながら「私は〜」なんて相手に話している僕は、心の中では相手に隙を与えまいと常に警戒をしている。笑顔の裏には「ああ、こいつ俺苦手だわ・・・」なんて思ったりもしている。
これらは、不思議と、全て無意識下において決定づけられている。「この人の前ではこの一人称を使おう」なんて考えもせず、ただ自分にとって対面した相手と一番話しやすい、接しやすい一人称が口からこぼれているという感じだ。

全員が僕のように一人称を無意識に使い分けているわけでもなければ、定まった一人称だけを使う人も僕は知っている。一方で、やはり大多数は、一人称が喋る人や状況によって変わる者が大多数に思える。こういうとき、無意識にその思考や言動は一人称によって違うのでは無いかと思った。僕自身が、そうであるように。

 

一人称が決定するまでの過程に、僕は最初、「相手」「状況」「伝える内容」と「自分自身がどう思われたいか」を全て考慮し、無意識的に適切な一人称が発せられるものだと思っていた。だが、より恣意的な力が瞬時にして作用していることを考えると、一人称は思考した結果に出るものではなく、反射に近い形で発せられているのではないかという考察をした。これらは全て内的要因にある。相手や状況も、認知するのは自分自身であるために内的要因と分類した。だが、こういったものは思考を辿る必要があるために、反射というにはプロセスを踏みすぎている。

そのため、「相手」によって変えているのではなく、「自分自身が相手をどう分類しているか」によって変えている、という結論に達した。「自分自身が相手をどう分類しているか」であれば、より直観に近く、反射にも近い速度で認知ができる。内的要因であるにせよ、より自然な無意識下の選別である。

では、逆説的に考えてみよう。
「相手をどう分類しているか」によって一人称が決定づけられているのではなく、一人称によって相手の分類が決定しているのだとしたらどうだろうか?たとえ相手が恋人であっても友人であっても、彼ら彼女らにそぐわない一人称を使い続けていれば、だんだんと関係生がその一人称における分類に遷移する、ということである。これが真実だとすると、僕らが他者と築いている関係性は、内的要因ではなく、外的要因によっても決定づけられてしまうことが真であるということになる。

頭の中に友人を思い浮かべて、彼との会話をしばらく想像した。いつもは「俺」を使う間柄の彼に対し、僕は敢えて「私」と言い続けた。僕が「私」と言っている間は、言葉の選別や会話の内容も自然と距離を置くようになっていた。笑いながら「私」という僕が見える一方で、心の中で僕は一切彼との会話に笑っていなかった。思考を探るように、僕は目を細めながら彼の表情を窺っていた。
一度、これを読んでいるあなたにも想像してみてほしい。友人を一人思い浮かべ、彼/彼女に対していつもは使わない一人称で話をしてみて欲しい。最初は一人称に落ち着かず、慣れないが、10分も想像していると、その人との会話の内容はいつもとは変わっているのではないだろうか?

 

これによって見られる狂気は2つ、存在する。

ひとつは言わずもがな、人格が複数あるということである。人格というと大袈裟かもしれないが、思考や言動が多少なりとも変わるのであれば、それは一種の別人格であると言っても過言ではないだろう。ビジネスとプライベートだけでなく、その中においても分類されるというのは、もはやオンオフという話では済まされない。究極的に言えば、個々によって見せる人格が違うのである。

それが状況によって全て依存しているのではなく、一人称という完全外的な「記号」によって関係生が制御されるというのが二つ目の狂気である。人との関係性が、自身の発する記号によって崩れてしまうことがあり得るのだ。それは極めて意図的で恣意的な作用ではあるものの、一人称を決定づけてしまえば適切な関係性を見失ってしまう可能性がある。同時に、一人称を変えることによって、それまで嫌悪していた相手に違った印象を持つこともまたあり得る。そうなると、僕らの感情は一体なんなのだろうか?ということになる。

他人に対して抱く感情は、記号によって決定づけられるのだろうか。

なんてことを考えていたが、婚約者との会話を想像してみると、いつまで経っても関係性も、愛情も変わらないことに気づいた。これだけは変わらない真実なのだな、と、のろけて終わることにしましょう。

 

結局のろけたいだけやないか!

複数の自分の声がツッコミをいれてきたような、そんな気がした。

誰が為に

僕の書く言葉は、不特定多数の人のためにあると思っていた。
不特定多数の人に見てもらって、いつか、彼らの人生を少しだけ変えたり、考えさせてあげられるような文章を書きたいと思っていた。
どんなふうに?この世界が楽しくて、面白い場所で、生きてるのは楽しいよって伝える文章だ。だから、るなてぃっくに、面白おかしく、話の方向をあらぬところに持って行ったりした。

 

でも、それは違うと、最近になって気がついた。

 

僕は知らない誰かのために、文章を書けるほど器用じゃない。でも、特定の誰かのために文章を書こうなどと広い心も深い理解力も持ち合わせてはいない。
つまり、僕は、自分のために書いていたのだ。
自分に、人生が楽しいということを、まだ諦めては勿体無いと言い聞かせたかったのだと思う。不特定多数の人のために書いたそれらは、その実、自分のために書いたものだった。不特定多数は、僕の鏡だった。

 

それに気づいたから、それを認めたから。
僕は、もうひとつのことに気がついた。

 

実はここ最近、文章を書くことに違和感を感じていた。それは「不特定多数の人のために書いている」と思っていたからなのだけれど、なんだか言葉に心が乗らない気がしていた。「読者の皆さん」とか思いながらも、眼に浮かぶのはただ一人だけだった。
そう、僕は、彼女のために、文章を書いていた。

気づけば、僕は恋人のことを想ってブログを書いている。ブログだけではない、人生で初めての手紙なんて書いたりもした。この文章も、この気持ちを伝えたいがために、今こうして、書いている。これもまた、彼女のことを想って出てきた言葉たちである。

それがよいことなのかどうか、僕にはまだわからない。自分の世界を保ったまま、文章を書く言葉もはや至難の業となってしまった。僕から特定の人にあてた言葉は、他人にとっては読む価値がないのかもしれないとも思った。そういう理由もあって、直近の違和感を僕は封じ込めてきた。
と、同時に、今まで自分にしか向いていなかった言葉を他人に向けることができたのも、ひとつの心の変化ではあるし、成長とも受け取れる。相手のことだけを考えて作る文章は、不特定多数にはまだ届かずとも、相手には、少し届くと思えた。

 

これからは、ただるなてぃっくを目指すのはやめようと思う。
時々るなてぃっくになりながらも、今の自分の気持ちを、その心の変化を、共有したいと思った景色を、書いていこうと思う。

 

誰が為に文章を書くのか。

ついに見つけたその人のために、僕は言葉を紡ぎたい。そのために、今までがあって、これからもあり続けようと、決めた。

バイオハザード鑑賞中の僕の脳内

今日はバイオハザードの最新作を映画館に見に行った。
絶対に見たかった!なんていう熱心なファンでもないが、過去のシリーズを全て映画館で見た僕にとって、これを見ることは義務にも思えたし、惰性にも思えた。熱心なファンでもないのに、わざわざお金を払って一人で見に行くのだから、どこかしらに「見たかった!」なんて気持ちもあったのかもしれないが。
映画の評論をしても仕方ないので、少しだけ。うん。初めの数分でネタバレしていたこと、ローラが果たしてクローズアップされる必要があったのか、最後の場面であの小さな試験管が・・・え、そんな効き目強いの?・・・みたいなことがあったので、矛盾や細かな描写を気にせずにあくまでエンタメとして見たら面白いのかなぁというところだった。(そもそもバイオハザードの設定がエンターテインメント要素でしかないので、映画自体に全く文句はない。寧ろ、映画に求めていた爽快感は十分にあったように思う)ちなみにここから随所にネタバレの要素があるのでご承知おきを。

にしても、観客の心の動かし方が上手だと思った。
このシリーズは、初めにアリス(主人公)のナレーションで過去の出来事をおさらいするのだが、前作を見ている人からすれば「あーそういえばそんなこともあったなぁ」なんて感じで見てしまう。ノスタルジィに浸るように、これから起こる展開に対する心の高揚を落ち着かせてくる。そのあと、時間軸が「現在」に至ったところで、びっくりさせるような展開がやってくる。背後からいきなりゾンビが現れたり、車のガラスが破れる音とともにゾンビの腕が伸びてきたり、水中からばぁっとゾンビが出てきたり。心に平穏がもたらされた瞬間を狙って驚かせにくるので、油断していたら身体がビクゥと反応してしまうほどだ。例の如く僕もこの戦法にひっかかり、驚きのあまり、情けなく「にゃぁ」と声を出してしまった。
これがカップルで座っていたのならば、二人で顔を寄せ合ってくすくすと笑い、恥ずかしさを紛らわすこともできるが、一人だとそうもいかない。
これが「わぁっ」とかなら周囲も許してくれただろうが、「にゃぁ」だとそうもいかない。

隣にカップルが座っていたのだが、声をあげた瞬間に二人から「えっ?」みたいな視線で見られるのを感じた。
平静を装い何事もなかったかのようにスクリーンを見たが、カップルからの一瞬の視線に、身体から熱が放出するのを感じずにはいられなかった。熱くなったあまり上着を脱いで、それを丸めて体育座りした身体の中にうずくめて抱いた。「にゃあ」と普段声をあげてるやつは、僕の中では「猫になりたがっている非現実的なファンタジー野郎」か「恋人に接する時にもそうやって甘えてる頬が赤い人間」である。ああ、なんとまぁ恥ずかしい声を出してしまったのだろう、とそんなことを考えていたら、いつの間にかアリスが新種のゾンビをやっつけていた。アリスが翼竜種を倒してから再び車に乗り、それがパンクして罠にかかった時、僕の思考は次の段階に移っていた。

『「にゃあ」以上に恥ずかしい頓狂な声はなんだろうか』

足を吊られ、そこに現れた幾人かのライダーに殴られながら、彼らの油断を待って反撃に出ようとするアリスを見ながら、僕はそんなことを考えていた。アリスが自分を守るために闘うように、僕も自己保身のために恥ずかしい台詞を考えていた。彼女が世界を救うために最後の決戦場に向かうように、僕も全世界の「にゃあ」と叫び声を上げてしまった人々のためにもっともな言い訳に思考を巡らせた。

手始めに「ひょお」はどうだろうかと考えてみた。
『ゾンビが突然現れる。隣に座っている男が「ひょお」と驚く。』想像したら、笑ってしまった。

スクリーン上ではちょうどアリスが反撃に出て最後の一人の頭を打ち抜いた瞬間だった。
よりにもよってその瞬間に、僕は「ふふっ」と笑ってしまった。しまった。これでは、僕は驚嘆に「にゃあ」を発し、人が死ぬ瞬間に吹き出す、情緒不安定なサイコ野郎ではないか。頭の中で出来上がったそんなサイコパス人間を掻き消すように、僕は真顔に戻る。隣に座ってその表情の変化を見ていたら、ちょっと怖いかなと思うくらいに。アリスは周囲をやっつけた後にバイクに乗ろうとしたが、手をハンドルにかけた瞬間に「乗車対象外」の表示が出て彼女の身体を電流が貫いた。それを見て、失態を侵したのは自分だけではなかったと僕は少し安心した。
しばらく、また映画に見入る。その後もワンパターンに驚かせようとしたシーンが続いたものだから、僕は先ほどの思考にまたと辿り即いた。

「ひょお」に思わず笑った自分を振り返ると、つまり「ひょお」は笑いを提供するような要素があることになる。白けよりも笑い、これは恥ずかしさよりも、むしろそんな驚嘆をあげたら名誉なことだろうなと思った。いや、恥ずかしくてそんな声を上げることなどできないが。なんにせよ、「ひょお」が斜め上に行き過ぎて恥ずかしさを掻き消してしまうのであれば、それは「にゃあ」よりも恥ずかしい頓狂声にならぬことになる。もう少し控えめで、だが、アブノーマルな声。
「せい」・・・違う。
「ぬはぁ」・・・わざとらしい。
「ふひぃぃ」・・・うっとうしい。
アリスが敵をやっつけている間、またもや僕の思考は別世界に飛んでいた。なかなか上位の声が思いつかないことに頭を悩ませている僕がスクリーンに目をやると、ちょうどローラが死んだカットだった。あの「はーい、うふふ」のローラが出演するというのは聞いていたが、彼女は登場後10分程度、僕が知らない間に死んでしまった。決め台詞の「はーい、うふふ、ローラだよぉ」を言うことなく死んでしまった。

と、前方に座っている男性がゾンビの呻き声に混じって思わず「え、ローラ・・・」と小さく言葉を放った。

で、僕は思った。「あ、これは恥ずかしいな」と。にゃあも恥ずかしいことは恥ずかしいが、目前に座っている男性もなかなかに恥ずかしいことを口走った。ローラのファンだろうか。それに、彼の隣を見てみると、女性が座っていた。・・・・・・ぬふふ?これは映画が終わった後に「あたしとローラどっちが好きなの?!」と言われてしまうパターンではないかと思った。
「君の方が大切だよ!もちろん!」そう言う彼に蹴りを入れる彼女。
「もう知らない!あたしがゾンビになってもあなたはローラを助けるために躊躇なくあたしの頭を撃ち抜くんでしょう!?」
「そりゃ、ゾンビになってしまったら生存者を救う以外道は残されてないだろう・・・」
「ひどい!ゾンビになっても愛してくれるとあの日誓ったじゃない!」
「どの日だよ・・・?」
バイオハザード第一作を一緒に見に行った日よ!覚えてないの!?」ヒステリックになる彼女とは対照的に、彼は至って冷静である。眉間に皺を少し寄せながら、困ったという表情で過去のことを思い出そうとする。
「あ、ああ、そういえばそうだったな。スタバでそう言ってたな、そういえば」
「それ私じゃないし!私はエクセルシオールよ!もう、ほんとに知らない!馬鹿!」

とか、映画中、どうしてもこういうことを想像してしまう。
誰かどうにかしてほしい。

青こんにゃくの末路

京都から東京に行くために、夜行バスを久しぶりに使うことにした。最後に乗ったのは就職活動の時だった気がする。そうすると、今から4年くらい前になる。幸運にも、道中ずっと隣の席が空いていたため、僕は手を広げ足を広げて眠ることができた。
さて、新宿の新しいバスターミナルに到着してから、僕は恋人の最寄り駅に向かうべく電車に乗り込んだ。前夜、遅くまで仕事をしていたので、彼女に無理をして起きて欲しくなかった。あくまで「俺もネットカフェで寝てるから、起きたらメールちょうだい」というていで、彼女の最寄りのカフェで待とうと決めていた。
中央線の電車に乗り込むと、席がひとつ空いていた。両側に男性が座っていて少し狭い気はしたが、身をよじらせるように空いた場所に尻を置いて、除々に身体を中にずらしていった。ひと駅ほど過ぎたところで、僕はやっと席に深く腰掛けることができた。

 

落ち着いたところで、何気なく周囲に目をやる。土曜日の早朝だというのに席はほぼ全て埋まっていた。これが平日だったら立っている人もわんさかいるのだろうか、と思うと、東京はやはり人口が多いなと実感させられる。早朝の京阪や阪急がこんなに満員御礼なのは見たことがない。向かいに座る人は全員携帯を見たり、ゲームをしたりと、それぞれがそれぞれの持つ携帯機器の画面に向き合っていた。僕は読み始めたばかりの本を手に持っていたが、本を電車の中で読んでいることが時代錯誤な気さえしてしまうほどで、結局読むことなく鞄にしまい込んだ。

 向かって一番左に、40代くらいの強面の男性が座っていた。建築に携わっているものだろうか、土方の作業着のようなものを着ていた。或いはもっと若いのかもしれないが、彼のあまりにも怪訝な表情が、見た目の年齢をひきあげたのかもしれない。土方男の斜め前方に、たて縞の入った青いスーツを着た男性がつり革を掴んで立っていた。それが原因であることが、動作ですぐにわかった。

スーツを着た男は少し禿げ上がっていて、スーツはぴちぴちフィットのジャストサイズだった。腹いっぱい食ったらワイシャツのボタンが弾け飛ぶんじゃないかと思うほどに腹も出ていた。顔は童顔、おそらく30代前半かと思う。

男は、つり革を持ちながらも、極めて不自然な動きをしていた。眠気なのか、酔いなのか、つり革を持ったままぐでんと腰を曲げて「く」の字を作ったり、右足に軸を置いて綺麗な一回転を見せたりもした。電車の揺れに合わせ、首の骨が折れたかのように頭は前後にぐでんぐでんと揺れていた。つり革を掴んでいないもう左手は何かを掴もうとするが空を裂くばかりだ。

その軟体生物のような動きとぴちぴちの外見から、僕は彼を「青こんにゃく」と命名した。

そのときは朝から酔っ払いがいることに驚いていたが、今思えば青こんにゃくが右手一本で身体の全体重を支えていることにも驚くべきだった。

はじめ、土方の男性は「前方の青こんにゃくがいつ嘔吐するかわからない」不安から不機嫌な顔をしているのかと思った。だが、見ているうちに、そうではないことに気づく。

「なんなんですか、ったく、本当に。」
「なんなんですか」

と、土方男が言っているのが聞こえた。おお、ちゃんと敬語を使っている。
つなぎを着た険しい顔の男性は怖い、何ああればすぐに怒声をあげて鉄パイプを振りかざす、というのが僕の中で醸成されたイメージだったが、彼は意外にも冷静に喋っていた。それだけで僕の心の中で拍手喝采状態だった。

だが、土方男の完璧な台詞に対して、青こんにゃくから返答はなかった。まるで自分は沸騰した鍋に入ったおでんの具であるかのように、ただぷるぷると揺れ続けていた。

目の前で争いが起こることなど決しては望んではいないが、僕は好奇心から、彼らから目を離すことができなくなった。

青こんにゃくをよくよく見ると、土方男があの台詞を吐いた理由がわかった。
初見では分からなかったが、彼の表情の奇怪なこと。ぐでんぐでんと身体をくねらせ揺らしながら、満面の笑みで土方男を見ていたのだ。
「青こんにゃくが、揺れ、踊りながら満面の笑みを浮かべている」
それだけでも不快だろうに、その笑みが自分に対して向けられているものだとしたら怒るに決まっている。何か起こるのではないかという腹黒な期待が、僕の鼓動を早くした。

その後も土方男はちらちらと青こんにゃくを睨みながら何やら呟いていたが、青こんにゃくは「電車の中では手を出せまい」と言わんばかりの表情で、土方男を見下していた。土方男は端に座っていたので、その隣に立って、土方男の顔の近くに顔をやったりもした。
「ぬふふーぅ」と言って、両の手の指をぴらぴらと動かしながら土方男を挑発したりもした。

ああ、これは。

爆発寸前だ。

そう思った。

青こんにゃくが赤こんにゃくに変わる瞬間が、すぐ目の前まで来ていた。

だが、土方男が目的としている駅に到着した。彼は結局何もせず、さっさと電車から降りた。去り際に怒鳴ったりもしなかった。大人である。何事も起こることなく終わってしまった目の前の喜劇に少し落胆したものの、土方男の男気だけで僕はある意味満足していた。

そのときの青こんにゃくはと言えば、開く扉の反対側に避難して流れ出る人の波を避けていた。相変わらず奇妙な動きをしていたが、目線は反対側扉の窓の向こうにあった。
流れがなくなった後、つまり電車のドアが閉まる直前、青こんにゃくの目は土方男の座っていた席を見やった。土方男がいなくなったのに気づいたのだろう、猛ダッシュで、閉まりかけたドアに突進し、そして、閉まったドアに激突した。あまりの瞬発力のある動きだったので、こんにゃくは激しい衝突音を車内に響き渡らせた。

 

そのまま仰向けにばあんと倒れ込み、呻きをひとつあげてから、彼は静かになった。

 

立川の駅について、電車からはまた多くの人が降りていった。

 

僕もその流れに身を任せ、電車から降りる。

 

青こんにゃくは、朝陽を全身に浴びながら、電車の中で静かに眠ったままだった。

 

 

 

「俺のマドラー」で試される己の想像力

いよいよ2017年に突入した。
僕は90年生まれなので、比較的年齢が数えやすい。3月を過ぎれば27歳になる。きりのいい数字にも関わらず、親は最近になって僕の年齢をひとつかふたつ上であることを推測するようになった。
「あれ、野狐って今28だっけ?」
「いや、俺90年生まれやからまだ26だよ」
昨年末にこんな会話を二回か三回ほどした。平和である。

さて、年末年始は恋人と一緒に過ごした。初めて、年越しを恋人と過ごす僕にとって、それは初体験にも似たような高揚感を感じさせるものだった。何をしようか、どこに行こうかと初心な心を思い出させてくれた。結果的には2017年突入の2分前までは眠り、2017年突入の30分後には寒くて外に出ないまま眠ってしまったのだが。しかし、人生で最も幸福な年越しだったと思う。1月3日まで一緒に居たのだが、初夢にも、その後一緒に居た間も絶えず彼女といる夢を見続けた。
はい、これは疑う余地もなくただの「惚気」でごぜえます。
幸せ過ぎると人間はこうも己の幸福を世間にさらしたくなるものなのだな。


さて、その年末年始、恋人とある議題について討論を行った。
「俺の〜」を名詞の語頭に付けると、それだけで卑猥な響きになってしまうという現象についてだ。
京都まで来てくれた彼女と、大手筋商店街のカフェ・ベローチェに入った時にその議題は浮上した。彼女はカプチーノを頼み、僕はホットココアを頼んだ。各々が取ったマドラーで中身を混ぜながら、煙草を吸いながらゆっくりと飲んでいく。一旦トレーの上に置かれたマドラーたちだったが、ココアを飲み終わって僕は、なんとなくそれらを自分のマグカップに入れた。バカップル丸出しなのだが、それらのマドラーを重ね合わせて「ずっと一緒だね、君のマドラーと俺のマドラー」と言った。数秒間の沈黙の後、彼女は「えっ・・・」と言って、薄ら笑いを浮かべていた。その「えっ・・・」という反応に僕も自らの言葉の過ちに気づく。
「俺のマドラーって完全な下ネタやった・・・」
これが「僕のマドラー」だったら、まだ可愛げがあっただろう。だが、「俺のマドラー」である。さらには「君のマドラー」である。頭の中ではBL的要素を多分に含んだイメージが乱立していく。眼鏡をかけた狐っぽい男が、細マッチョの童顔男子に向かって言うのだ。「俺のマドラーと君のマドラーが、ああ、重なり合っているよ」と。もう一度言う、完全な下ネタである、これ以上ないくらいの下ネタが、何気ない発言の中から生み出されてしまった。にしても、マドラーとは。長いけれども細すぎやしないか?
何はともあれ、これを皮切りに僕は【語頭「俺の」+名詞=下ネタ】の方程式に気づいてしまった。
例えば、それは下ネタになるであろうものから、下ネタに結びつくのか?というものまで、全て該当することがわかった。

「俺のフレンチ」   これはわかりやすい。
「俺のホットミルク」 これはもっとわかりやすい。
「俺のカルパッチョ」 若干わかりにくいが、なんだかみずみずしい感じがする。
「俺のイタリアン」  全くわからないが、想像力はかきたてられる。

不思議と、想像の難易度が上がれば上がるほど、僕にとってはそれは卑猥に聞こえるようになった。例えば僕はレモンが好きでたまらないのだが、そのレモンを「俺のレモン」というだけで、なんだか卑猥に感じてしまう。
「えっ、レモンってどこの部分のこと!?」とか「なにそれどんな技!?」とか。ああ、言われるまでもなく、僕の心は荒んでいる。だが、同時にこれは想像力が豊かであることの証明のようにも思えた。「秘技・野狐流抜刀術 俺のレモン・・・!」とか言ってしまえば、もう予想だにしない卑猥な攻撃が繰り出されることを想像してはしまわないだろうか?何かがわからないからこそ、それに対する興味が出てくる。「俺の○○」発言は、人間の興味と想像力をはかり、潜在的にその能力を引き延ばす効果があるのではないか、と僕は思い、彼女にその思いの丈を伝えた。

残念ながら、それを彼女に力説したところで同意は得られなかった。
120%の力で行ったプレゼンテーションは、くしくもカフェの一角で静かに否定され消え失せてしまった。

まあ、最終的には「野狐」の脳内が汚染されて取り返しのつかないという結論に至り、議論は収束してしまったわけだった。恋人はそれを明言はしなかったが、僕を見る目が少しばかりの憂いを秘めていたことから、彼女の返答がそういったものであると感じ取ることができた。その美しい目を見ると、「早く彼女のことを嫁と呼びたいな」と思わずにはいられなかった。
苦笑いなのか、はにかみかなのかもわからない表情を互いに見せながら、そうして僕らはカフェを後にした。

 

年始早々すいませんでした、今年も何卒よろしくお願いいたします。